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清水宗治の辞世 戦国百人一首64

織田信長の命による羽柴秀吉の中国地方攻略で散った武将の一人、備中高松城主・清水宗治(1537-1582)は、忠義に厚く毛利家が誇る屈指の智将だった。
本家・毛利家も小早川家も最後まで宗治の助命に奔走した。
しかし、宗治は「武士の鑑(かがみ)」と称されるほどの見事な終わり方をもって死んでいった。

64 清水宗治

浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して

さあ浮世を離れ今こそ死後の世界に行くぞ 武士としての名を高松の地の色あせない苔のように永く遺しながら  

潔く自分の死を迎え入れる宗治の辞世は、どこかポジティブさを感じさせるほどだ。彼の死はあまりにも完璧であり、その完璧さが悲しい。

織田信長の命による羽柴秀吉の中国侵攻(毛利攻め)は、し烈を極めた。
noteにおいて既に紹介させていただいた、

「三木の干殺し」の別所長治、別所友之

「鳥取の渇え殺し」の吉川経家

これらは、羽柴秀吉の攻略によって命を落とした武将たちと、彼らに従う兵たちの悲劇である。

そしてこの清水宗治も。

秀吉軍は3万の兵で備中高松城を包囲した。1582年4月のことである。
対する清水宗治にはわずか5000の兵で備中高松城に籠城した。
軍師・黒田官兵衛を要する秀吉軍の「干殺し」「渇え殺し」に続く次なる作戦とは、「水攻め」だったのである。

もともと備中高松城は付近に湿地帯などがあって、歩兵にも騎馬兵にとっても攻めにくい城であった。
そこを逆に利用した秀吉軍は、城の周囲に全長3kmもの巨大な堤をたった12日で完成させ、付近を流れる足守川の水を引き入れて水浸しにしてしまったのだ(堤の全長については諸説あり)。
城は水の中で孤立してしまった。

これには城の中の宗治も、駆けつけた援軍の毛利軍も手出しができない。
外部との連絡も、補給も船を使うしかないが、そんなことをすれば周囲に控える秀吉軍に狙い撃ちされることは明白だ。

日がかさむごとに兵糧が減っていく。
勝ち目のない戦を悟った城内の兵たちの士気は、当然下がっていった。

やがて毛利方と秀吉との間で和睦交渉が始まった。
実は水攻めの最中、6月2日に明智光秀による本能寺の変で織田信長が死んだ。その知らせを聞いた秀吉は、早急に京へ戻って明智光秀を討たなければならなかったのである。
そこで、秀吉は織田信長の死を伏せたまま毛利との和睦交渉を行った
信長の死を知れば、毛利方がスムーズに和睦に応じる可能性が減るからだ。

信長の死を知らない毛利側は、和睦交渉の中でなんとか清水宗治の命を救う方法を模索していた。宗治はぜひとも救いたい武将だった
毛利方の5国を割譲することを条件に宗治と城兵の助命を求めるが、秀吉は宗治の切腹にこだわった。
そこで秀吉側が清水宗治に直接交渉すると、忠義の将は躊躇することなく、自分の命で毛利家と城兵が救われるならば、喜んで死ぬと快諾してしまった。

清水宗治の切腹が決定した。

6月4日の午前、秀吉に贈られた酒で側近たちとの今生の別れをした宗治は、家臣2人とともに小舟に乗って城から現れた。
羽柴軍の近くまでこぎ寄せると、水上で見事な舞いを披露したのちに家臣の介錯によって潔く切腹して果てたのである。

それを見届けた羽柴秀吉は、「これぞ武士の鑑」と褒め称え、そのあとすぐに京へと向かって行った。

毛利方が織田信長の死を知ったのは、4日の午後である。
清水宗治はそのことを知らないままに死んで行った。