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北条氏照の辞世 戦国百人一首⑰

⑮⑯に続き、またまた後北条氏である。
北条氏照(1542-1590)は、⑮北条氏政の弟、⑯北条氏康の息子だ。

北条氏照

天地の清き中より生れ来て もとのすみかにかえるべらなり

人は、天地の清らかな世界の中から生まれて来て、もとの住処(すみか)に帰るものなのだそうだ

北条氏康の3男だった。
武蔵国守護代で関東管領家の上杉氏に仕え、のちに後北条氏家臣となっていた大石定久の大石家に婿養子として迎え入れられた。
大石源三氏照と名乗り、滝山城と武蔵国守護代の座を譲られている。

氏照は、軍事の巧者であり外交にも長けたので、北条氏と上杉家や伊達家との関係にも重要な役目を担っていた。

1569年の武田軍による小田原城包囲があった際に、彼は痛恨の敗北をしている。
甲斐に帰国するため撤退していく武田勢を氏照・氏邦兄弟の軍が叩き、小田原城から武田軍を追撃する北条氏政軍と協力して挟み撃ちするはずだった。
だが、氏政の追撃軍が間に合わず、氏照・氏邦軍はかえって武田の別働隊に襲撃を受けたのである。
氏政、氏照、氏邦たち兄弟の戦いにおける失態は、父親の北条氏康を落胆させた。氏照はその後、大石から北条姓に戻している。

しかし、氏照は織田信長の死後に織田領・上野へ侵攻し、信長の家臣だった滝川一益を破るなど、北条領の拡大で活躍を見せた。

さて、織田信長の死後、天下を取った豊臣秀吉の臣下に下ることに抵抗した北条氏は、秀吉の上洛催促になかなか応じず、彼の怒りを買った。
1590年、秀吉が22万の軍勢を率いて小田原城へと攻撃をしかけたのだ。
小田原合戦である。
氏照は徹底抗戦を主張し、小田原城に立て籠もったが北条氏の籠城は失敗。
小田原開城の際、秀吉は氏照が合戦の中心メンバーだとみなし、兄の氏政と一緒に切腹を命じた。

小田原合戦の経緯については北条氏政の⑮に述べている。

それにしても、この氏照の辞世の澄み切った世界はどんな心境から生まれたのだろうか。諦めを通り越したのか。

兄・氏政と弟・氏照の2人の歌を比べてみよう。

氏政辞世
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば
氏照辞世
「天地の清き中より生れ来て もとのすみかにかえるべらなり

要するに同じようなことを兄弟揃って詠んでいる。
死生観も兄弟で似たのだろうか。

兄弟とも北条氏の侍医として仕えた田村長傳(たむらながつぐ)宅で切腹したというから、お互いの辞世が影響しあったのか。