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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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#織田信長

戦国時代の辞世を集め、心を込めて「戦国百人一首」を作る試み

辞世とは死にぎわに残す歌や詩のこと。 仕事で歴史上の有名人についての記事を書くとき、彼ら…

柴田勝家の辞世 戦国百人一首79(再)

注意:この投稿は、既にアップしていたNo.79の記事の再アップです。既読の方がいらっしゃった…

柴田勝家の辞世 戦国百人一首79

柴田勝家(生年未詳-1583)は、織田信長の重臣として活躍した武将だ。 通称「権六」、武骨な性…

市の辞世 戦国百人一首78

「お市の方」と呼ばれた市(1547?-1583)は、織田信長の妹、そして浅井長政や柴田勝家の正妻…

武田信玄の辞世 戦国百人一首61

武田信玄(1521-1573)には持病があり、亡くなる前には喀血を繰り返していたという。 彼の病名…

だし(荒木村重室)の辞世 戦国百人一首56

『戦国百人一首55』で荒木村重に見捨てられた、荒木の重臣・池田和泉の辞世とその死に至るまで…

池田和泉の辞世 戦国百人一首55

この人物をあえてセンセーショナルに紹介すれば、 「鉄砲で自分を撃ち抜いて自害した日本で最初の人物」 である。 池田和泉(池田和泉守とも呼ばれる)(?-1580)は、残された城で主君の妻子たちを守りながら、ひたすら彼の戻りを待った。 だが、薄情な主人は逃亡後に城に戻ることはなく、城内に取り残された人質たちを見殺しにした。 見捨てられた池田和泉は、城内の状況に悲観し絶望のあまり自害したのだ。 彼を死に追いやった主人とは、有岡城(伊丹城)城主・荒木村重。     露の身の消えても

松永久秀 最期の言葉 戦国百人一首㊺

松永久秀(1510-1577)は、日本の戦国三大梟雄(きょうゆう)として斎藤道三、宇喜多直家と並…

朝倉義景の辞世 戦国百人一首㊸

自刃したあと、朝倉義景(1533-1573)の首は京で獄門に晒された。 織田信長がその義景の頭蓋…

織田信孝の辞世 戦国百人一首㊳

納得できない死を前にして怒りを爆発させた辞世を残したのは、織田信孝(1558-1583)である。…

今川氏真の辞世 戦国百人一首㊲

今川氏真(1538-1615)は駿河国・今川氏の第12代当主である。 前半は大名、後半は文化人として…

今川義元の辞世 戦国百人一首㊱

今川義元(1519-1560)は、「海道一の弓取り」と呼ばれ、天下取りに近いとされた駿河国・遠江…

明智光秀の辞世 戦国百人一首㉙

明智氏は美濃の土岐氏の支流であり、さらに遡れば清和源氏につながるということだが、明智光秀…

初代本因坊 算砂の辞世 戦国百人一首㉘

わが国最初の囲碁棋士、これが算砂(さんさ)(1559-1623)である。 将棋の名手でもあった。 戦国の三大英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に囲碁を指導したという算砂が遺した辞世には、囲碁が登場せずにはいられなかった。 この世を去るというときに、算砂の辞世は笑いを誘う。      碁なりせば 劫(こう)など打ちて 生くべきを       死ぬるばかりは 手もなかりけり もし囲碁であれば、死にそうな局面でも劫で粘って生きることもできるのに、自分が死ぬとなると打つ手がな