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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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#豊臣秀吉

戦国時代の辞世を集め、心を込めて「戦国百人一首」を作る試み

辞世とは死にぎわに残す歌や詩のこと。 仕事で歴史上の有名人についての記事を書くとき、彼ら…

島津歳久の辞世 戦国百人一首83

島津と聞けば薩摩だ。 島津歳久(1537-1592)は、薩摩の守護大名で島津家第15代当主・島津貴久…

安国寺恵瓊の辞世 戦国百人一首82

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(1539–1600)は臨済宗の僧侶である。毛利家の一外交僧から豊…

中村文荷斎の辞世 戦国百人一首80

この人物を知る人はなかなかの歴史通かもしれない。 柴田勝家が切腹した時、勝家の介錯を行っ…

千利休の辞世 戦国百人一首75

偉大なる茶聖、千利休(1522-1591)は、商人であり茶人であったのに、まるで武士のように切腹し…

宇喜多秀家の辞世 戦国百人一首58

宇喜多秀家(1572-1655)は、元服の時に豊臣秀吉から「秀」の字を与えられて名を「秀家」とし…

一の台(豊臣秀次室)の辞世 戦国百人一首53

豊臣秀吉の甥で、彼の養子になった豊臣秀次の側室(もしくは正室とも考えられている)が「一の台」(1562-1595)である。 公卿・菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘だ。 夫の豊臣秀次が謀反の疑いで切腹した後、一の台も多くの者と共に斬首された。 そして、その時の心境がそのまま彼女の辞世の歌となった。  つまゆへに くもらぬ空に 雨ふりて 白川くさの 露ときえけり 妻であるがゆえに、雲やぬ空から雨が降ってきたような、突然思いがけないこととなり、白川の草の露がすぐに消えてしまうよ

豊臣秀次の辞世 戦国百人一首52

「殺生関白」(摂政と関白という役職名にかけたあだ名である)と呼ばれるほど猟奇的で悪逆非道…

織田信孝の辞世 戦国百人一首㊳

納得できない死を前にして怒りを爆発させた辞世を残したのは、織田信孝(1558-1583)である。…

初代本因坊 算砂の辞世 戦国百人一首㉘

わが国最初の囲碁棋士、これが算砂(さんさ)(1559-1623)である。 将棋の名手でもあった。 …

黒田如水(黒田官兵衛)の辞世 戦国百人一首㉗

黒田如水(1546-1604)は豊臣秀吉の参謀として、軍事戦略・調略・交渉などに活躍し才能を発揮…

石川五右衛門の辞世 戦国百人一首③

石川五右衛門(未詳-1594)は、実在した人物だ。 義賊のイメージが強いかもしれないが、なかな…

茶々(淀殿)の和歌 戦国百人一首②

豊臣秀吉の次には、彼の側室・淀殿(1569?-1615)の歌である。 淀城を与えられて住んだため「…