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戦国百人一首

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戦国時代(室町時代から大坂夏の陣まで頃)に生きた人々の辞世を100人分紹介していきます。
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2020年8月の記事一覧

武田信玄の辞世 戦国百人一首61

武田信玄(1521-1573)には持病があり、亡くなる前には喀血を繰り返していたという。 彼の病名…

武田信勝の辞世 戦国百人一首60

戦国大名としては、甲斐武田最後の当主・武田信雄(1567-1582)。 武田信玄の孫、長篠の戦いで…

沢庵宗彭の辞世 戦国百人一首59

江戸時代の臨済宗の僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)(1573-1646)は、漬け物の沢庵の考案者…

宇喜多秀家の辞世 戦国百人一首58

宇喜多秀家(1572-1655)は、元服の時に豊臣秀吉から「秀」の字を与えられて名を「秀家」とし…

黒田長政の辞世 戦国百人一首57

軍師・黒田如水(孝高/官兵衛)の息子が黒田長政(1568-1623)である。 関ヶ原の戦いでは東軍…

だし(荒木村重室)の辞世 戦国百人一首56

『戦国百人一首55』で荒木村重に見捨てられた、荒木の重臣・池田和泉の辞世とその死に至るまで…

池田和泉の辞世 戦国百人一首55

この人物をあえてセンセーショナルに紹介すれば、 「鉄砲で自分を撃ち抜いて自害した日本で最初の人物」 である。 池田和泉(池田和泉守とも呼ばれる)(?-1580)は、残された城で主君の妻子たちを守りながら、ひたすら彼の戻りを待った。 だが、薄情な主人は逃亡後に城に戻ることはなく、城内に取り残された人質たちを見殺しにした。 見捨てられた池田和泉は、城内の状況に悲観し絶望のあまり自害したのだ。 彼を死に追いやった主人とは、有岡城(伊丹城)城主・荒木村重。     露の身の消えても

熊谷直之の辞世 戦国百人一首54

熊谷直之(くまがいなおゆき)(?-1595)も、豊臣秀次が謀反の疑いで豊臣秀吉に切腹を命じら…

一の台(豊臣秀次室)の辞世 戦国百人一首53

豊臣秀吉の甥で、彼の養子になった豊臣秀次の側室(もしくは正室とも考えられている)が「一の…

豊臣秀次の辞世 戦国百人一首52

「殺生関白」(摂政と関白という役職名にかけたあだ名である)と呼ばれるほど猟奇的で悪逆非道…

別所友之の辞世 戦国百人一首51

1578年から1580年にかけて約2年間続いた、羽柴秀吉との「三木合戦」において、「三木の干殺し…

別所長治の辞世 戦国百人一首㊿

「三木の干殺し」と呼ばれた「三木合戦」は、別所長治(1558?-1580)の自害で幕を閉じた。 享…

三浦義同の辞世 戦国百人一首㊾

三浦義同(みうらよしあつ)(?-1516)は、のちに出家して三浦道寸(みうらどうすん)と呼ば…

筒井定慶の辞世 戦国百人一首㊽

実は、筒井定慶(つついじょうけい)(1556?-1615?)は、よくわからない部分の多い人物である。生没年も断定できない。 つまり、この辞世がいつのものであるかもよくわからない。 だが、この歌を読んで作者の背景を知れば、歌の意味が腑に落ちるのではないだろうか。    世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな      世間の噂にあがってしまったが、露のような運命のこの身。    消えてしまえば、何の罰も無いだろう。 筒井順慶のイトコ・福住正次が養子となって