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ケイオスシーカー

混沌から産まれ、混沌に還る世界。無為に続く永遠を観察し続ける存在・ニャルラトテップの端末である奏氏は、砕かれた神・ハスターを操る少女アスキスと出会う。
地球に顕現し、人類を実験材料にする30柱の神の殲滅を目的とする、神智学研究所と争う彼女は、同時に緑の月の神を崇める教団とも対立する。
神の実験を完遂させるため、教団を裏で操る神智研の狂える科学者・宮坂。儀式により召喚される緑の月の神アキシュ=イロウを、アスキスは奏氏を介して引き出した混沌の力で砕く。
片腕を犠牲にしてまで戦う理由がただ一人の想い人のためだと知りながら、奏氏は彼女に叶わぬ恋心を抱く。

第1話 無名都市の魔女

 暖かい泥の中で目が覚めた。

 甘ったるい腐臭を放つ、黒く粘つく泥の中に身を横たえているらしい。
 広い空間の目の届く限り、浅い泥沼が続いている。

(目覚めたか)

 うん。でもまだ眠いや。

 薄闇の中、再びまどろみに落ちようとするも、微かな雑音が邪魔をする。
 複数の人の声と足音。だんだん近付いてくる。

(観察し続ける事がこれの使命)

 解ってる。

 眠れやしない。寝返りを打つと、黒い泥が跳ねた。
 靴底が固い床を叩く音が慌ただしく響く。
 雨合羽のような物――恐らく、化学防護服――に身を包み、大仰なマスクを付けた人影が複数。大きな銃を構えている。物騒だな。始める前に終わらせるのはつまらないだろうと、ぼんやりと思う。

(●●●●●が次の瞬きをするまでの間の遊戯)

 それも解ってる。

「…………生存……発見……」
「…………ありえない…………召喚……の……」

(唯一つの継続する意思であるこれの慰め)

 それの声が遠くなり、意識が覚醒へ向かう。

「……奉仕種族……警戒を…………」
「…………ケース9、カテゴリーRに該当、指示を」

 化学防護服の集団の中に一人だけ、素顔を晒した少女がいた。
 身体のラインが露な白い皮製の服。同色の無骨なデザインのブーツが泥に塗れている。
 要所要所に取り付けられた黒い金具が目に付く。服と一体になった右手袋は左肩に、左手袋は右脇腹に縫い付けられ、右上腕と左の二の腕部分がベルトで固定されている。――拘束具、か?

 何の感情も表さない、ガラスのような瞳がこれ……僕を映す。
 微かな揺らぎが浮かんだように見えたが――

「了解。対象を保護。撤収後の焼却処理をもって状況終了」

 返しの付いたさすまた状の器具で、乱暴に泥の中から引き起こされた。こういうのは保護とは言わないんじゃあ……? 化学防護服の連中は僕に触れる事無く、ストレッチャーに拘束し終えると、粛々と撤収を開始する。

 どのみち抵抗する体力も無いようだ。車に運び込まれ後部貨物室のドアが閉まると、今度は真の闇が訪れた。やがて微かな振動が伝わる。移動を始めたらしい。

 遠くから腹の底に響くような振動と轟音が伝わってきた。
 真っ暗な車中で、ふと拘束着の少女の瞳に浮かんだ物の意味を理解した。

 哀れみだ。僕に対する。
 闇の中、少しだけ僕は気を悪くした。

            §

 無名都市。

 それがこの街の名前らしい。
 最初は名も無い地方都市というくらいの意味だと思っていたが、降り立った鉄道の駅名も「無名都(むめいと)」で驚いた。

 10年前から開発が始まった新興都市で、周辺部はまだ開発が続いている。駅舎も駅前通りもまだくたびれた様子も無い。整然とした街並みを、身の回りの物を詰め込んだ小さな鞄一つだけを手にし、僕は歩き始める。

 初夏の日差しを受けながら考える。移り住んだ人たちは、新しい住所が名無しの都だという事に、どの様な感想を持ったのだろうか。少し興味がある。
 もっとも、名付けたほうの気持ちは少し解る気がする。

 無有奏氏(むゆう・そうし)。僕の名だ。
 有っても無くても同じような物。投げやりに付け、半ば意地になって名乗り続けている。

 三ヶ月前、僕は一夜にして住民の全てが消えた街で保護された、たった一人の生存者らしい。生暖かい黒い泥の中に横たわっていた記憶がある。全裸で。
 その黒い泥が腐り果てた住人だという話だが、生きた人間を一晩で腐らせる薬物だか毒物が、本当に存在するのか、なぜ僕だけが無事だったのか。以前の僕なら知っていたのかもしれないが、今の僕には解らない。

 僕には、泥の中で目覚める前の記憶が存在しないから。

 地球温暖化だの避けられない食糧危機だの少子化だの時間単位で絶滅してゆく種だの無差別殺人だの。メディアは気の滅入るニュースばかり垂れ流しているが、そんな不安を反映してか、世間では新興宗教や自己啓発セミナー、サバイバル・コミュニティの類が流行っている。

 僕が巻き込まれたのは、そんな団体の一つが起こした事件だったらしい。「黒い腐泥に成り果てる」というのはさすがにショッキングだと判断されたのか、表向きは毒物を散布しての大量殺戮後の集団自殺として報道されている。
 僕にとってはとんでもない大事件だが、世界規模で見るとその様な事件が頻発し、一ヶ月で忘れ去られる程度の扱いだという。

 そんな宗教にのめり込んでいたのか。もしくは、裸で歩き回るような性癖を持っていたのか。……どっちにしてもろくでもないな、昔の僕。

 犠牲者が形を留めていないため、未だに正確な死亡者数が出ていないが、僕に関してはその逆。僕が何者であるかを示す記録が見付からないという事だ。つまり、僕は何者でもないという事らしい。

 丸三ヶ月間。何処とも知れない隔離施設での検査を終え、すっかり厭世的な気持ちで解放される僕に「奏氏」の名を付けたのは、やたら元気で前向きな一人の看護婦。施設を出る最後まで「本当は『総司』がオススメなんだけどね!」と頑強に言い張っていたが、常々彼女の新撰組に対する邪な妄想を聞かされていた身としては、断じて受け入れる訳には行かない話だ。なんだその受けとか攻めとかってのは!?

「無有」の姓の方も、「名前なんか無い。必要無い」「いーや、あるね!」という、彼女との子供じみた言い争いの中で付けたようなものだ。あるいは全てを失い、何も持たずに自暴自棄、無気力の底に沈みかけていた僕を気遣っての演技だったのかもしれないが……いや、無いな。やっぱりそれは無い。

 解放されたといっても、自由になった訳ではない。僕としても、身を寄せる親類縁者も無く放り出されても、即座に路頭に迷ってしまう。経過を見るための月に一度の検査と、常時所在確認と引き換えに、ここ無名都市にある星審学園の高等部一年生として、身分と住まいを保障された。

 新たな住まいになる寮への道のりでも、今の世情を垣間見る事ができる。宗教や自己啓発セミナーの類のポスターが、あちこちに貼り出されている。数えただけでも三種類。やたら目に付くのは、緑の月を背景に、教祖らしい中年男が張り付いたような笑みを浮かべているポスター。まともな精神状態なら、どうこうしようとも思わないほどの如何わしさだ。翠月祭という、満月に合わせた彼らの儀式の開催を告知する物らしい。拝月教……流行ってるのか? 

 立ち止まりポスターを眺めていたら、不意に足首に衝撃を感じ、次の瞬間には視界が反転する。背中の痛みで、足を掛けられ、受身を取る間もなく綺麗に転がされたのだと気付く前に、胸元を踏みつけられ身動きを封じられた。

「お前はアレか……うん? 違ったか。でもどこかヘンだな」

 僕の胸元にピカピカの黒の小さなエナメル靴を乗せ、なにやら一人思案しているのは、黒いゴシックドレスに身を包んだ少女。ご丁寧に同色のヘッドドレスを載せている。この角度だと、白くて細い足の付け根まで――

「まあ、いいや」

 何かを納得したらしい少女は、素早く足を翻し僕の鳩尾に一撃を叩き込む。

「こういうのに引っ掛かるなよ。心の平穏が欲しいなら、墓参りにでも行くか、坊主の説教でも聴いてろ。その方がいくらか安全だ」

 のた打ち回る僕を尻目に説教臭く警句を吐く。

「……い、いきなりすっ転ばしたうえにケリをくれといて、安全とか言うな!」

 改めて見ると、碧の瞳に金髪で、ビスクドールの様に愛らしい。もっとも、自分の人形に、こんなに小憎らしい表情を浮かべさせようとする人形師はいないだろうが。

「レディのスカートの中覗き込んで、警察に突き出されないだけマシだと思えよ」
「のぞ……っっ!?」

 初めてだ。怒りで言葉が出てこないという経験をしてしまった。

「それじゃあコーラ買って来い。あとあんぱんな」

 顎で商店街の先を指す。 

「何でだっ!?」
「パンツ何色だった?」
「白でした!」

 尻に追撃を受ける。格闘の心得でもあるのか、僕よりずっと小柄で体重も軽いはずなのに、すごく痛い! まあ、僕もパンツはただの布だと言い切れるほど、枯れてもいないし悟ってもいない。小悪魔を通り越して悪魔のような少女の言動だが、眼福だった事を認めるにやぶさかではない。

「こっちの公園で休んでるから、早くしろよ。逃げたら見付け出して……」
 言いさして歩み去る。

 見付け出してどうするの!? っていうか、お金貰ってない!!

 諦めてパン屋を探すべく歩き出し、ふと、少女の言葉に覚えた違和感を思い出す。拝月教に対して、何で「マシだ」とかじゃなく「安全だ」っていう言葉を使ったんだろう。そもそも、僕を何と間違えたんだ?

 探すまでも無くパン屋に辿り着いた。「やなせベーカリー」。パンが主人公のキッズアニメを連想したが、ただの偶然らしい。キャラクターの無断使用をしている類の店ではないようだ。店の外まで甘くて香ばしい香りが漂っている。

 店内に入ると、人の良さそうな老人が出迎えてくれた。さっき襲われた少女に比べれば、どんな人間でも相対的に善人に見えるだろうが。
 残念ながら棚はがらんとして寂しい有様だった。時刻は午後二時になろうかという頃。お昼の書き入れ時に大部分の人気商品が出払ってしまったのだろう。ついでに自分の遅い昼食もと考えていたのだか。

 幸い少女の指定したあんぱんは三個残っていた。後はクリームパンにうぐいすぱん、野菜サンドが一つづつ。食パンやくるみパンも残っていたが、やっぱり菓子パンか惣菜パンを食べたいじゃないか。少し思案して、あんぱん一個とクリームパン、野菜サンドを注文する。強欲そうだが所詮は女の子。あんぱん以外の物もよこせと言い出しても、二個も食べれば満足するはず。最低一個は自分で食べられる計算だ。

 ……何か考え方が卑屈になってきているようにも思うが、気にしない。お爺さんに包んで貰っていると、別の客が入ってきた。

 ぶかぶかの、恐らく男物のコートを着た小柄な少女。頭には黒い帽子を載せている。袖を肘まで捲くっているが、暑くないんだろうか? コートの中は丈の短いタンクトップで、可愛いおへそが覗いてるし、オーバーニーソックスを穿いているとはいえ短パンで、露出度は高めだ。コート要らないんじゃないの?

 お目当ての商品が無かったのか、棚を目にした途端、少女はあからさまな落胆の表情を浮かべた。一見して大人しそうな娘だったから、見ていて気の毒なくらいに。少女の視線の先が、ついさっきまでクリームパンの入っていた籠なのが、なんともいたたまれない。せめてもう少し早く来るか、僕が遅ければ良かったのに。

「お嬢ちゃん、ごめんね。クリームパンなら、たった今売れちゃったんだ」

 うわあ! この状況で、たった今とか言いますか、爺さん?!
 恨みがましい少女の視線が突き刺さる。何度かカウンター上の紙袋と僕の顔を見比べ、実家が全焼したかのような表情で「うぐいすぱん下さい……」と呟いた。

 逃げるように店を出ると、店の前の自販機で飲み物を買う。コーラとオレンジジュース。必然的に、その間に店を出た少女と再び対面する事になる。走って逃げるのもおかしな話だし、目的地の公園に楽しい事が待っている訳でもない。落ち着け、僕。

 下腹の辺りに、重い物を飲み込んだような気持ちのまま歩く僕の後ろを、少女が付いて来る。いや、付いて来る訳じゃないだろう。たまたま行く先が同じなだけで。

「……クリームパン……食べたかったよ……」

 少女の呟きと、すんすんと洟をすするような音が聞こえる。聞かせるつもりは無いんだろう。でも、泣くほど食べたかったの?
 何やら自分がすごい人非人に思えてきた。公園へ向かう角を曲がっても、少女は付いて来る。どうやら行く先は同じようだ。

 もう駄目だ。僕は意を決して振り向いた。

「クリームパン、食べる?」
「いいの?」

 即答ですか。遠慮しないの?
 少女はコートの袖で目元を拭うと、紙袋を差し出した。

「交換」

 満面の笑顔。少女にとってクリームパンは、それだけ価値がある品物だという事か。ゴスロリの悪魔にこの半分でも可愛げがあれば、即座にフラグが立っていただろうに。

「ありがとう。わたしはジジ」

 目顔で促してくる。紙袋のパンを取り替えながら、

「奏氏。無有奏氏」

 もそもそとクリームパンを齧りながら、目を細めるジジ。公園で食べるんじゃないの?

「『ジジ』って男に使う名前だと思ってたけど……」

 有名なアニメで見た覚えがある。

「フランスではちゃんとした女の子の名前だよ。……男の子にも使うけど」

 どっちだ!? 近くで見ると、瞳は微かに青みがかっているし、肌の白さも東洋人の物ではない。ハーフだろうか。
 並んで話しながら坂を上る。目的地の公園はすぐそこだ。小ぢんまりとした広場にはブランコと小さな東屋だけが設えられている。そのベンチに足を組み踏ん反り返る黒衣の少女を目にすると、ジジの顔から表情が消えた。あれほど美味しそうに食べていたクリームパンを無機的に飲み下すと、

「アスキス!」

 一音一音噛み締めるように、吐き捨てるように叫んだ。

「まだちょろちょろ付きまとってたのか、小娘?」

 とっくに気付いていたらしい、黒衣の少女がゆるゆると立ち上がる。
 立ち去るでもなく、歩み寄るのでもなく。
 その姿は軽やかに宙を舞った。

 愕然とし、鞄と紙袋を取り落とした僕とは対照的に、ジジは黒衣の少女――アスキスから目を離さぬまま、コートから両刃の長剣を取り出し、構える。何処に隠していた!?

 その表情はパン屋で見せた気弱げな物でも、クリームパンを手にした時の可憐な物でもなく。
 ただ戦う者の顔だった。

 アスキスの整った容貌に浮かぶ表情は、愉しげにも、苦々しげにも見て取れる。スカートの中を覗けそうな際どい角度だが、ドレスの裾も、頭の左右でまとめた金色の髪も、揺らぐことなく留まっている。

 それなのに、僕は身体に吹き付ける風を体感していた。不可視の生物がまとわり付くような不快感。臆病者の謗りを受けるかもしれないが、僕はそれに悪意を感じていた。いや、はっきり言おう。僕はその風に恐怖を抱いていた。

 見上げているのは僕だけれど、見下ろされているのは恐らく僕じゃない。
 ジジの雑に伸ばされた黒髪の下から覗く青みがかった瞳は、ただ真っ直ぐに黒衣の少女を見据えている。
 両刃の長剣を腰だめに構え、微動だにせず。
 奇妙な風は彼女をも捕らえようとしているはずなのに、その表情には畏れの欠片さえ見当たらない。その身から発する清冽な気のような物が、彼女に触れるのを阻んでいるのか。

 重ささえ感じるような威圧感。そう広くは無い公園中を、緊張が支配していた。
 風圧が強くなる。木々の梢は揺らぎもしない。
 やがて中空に屹立する黒衣の少女の背後に、異様な気配が凝縮し始める。

 それは一見巨大な鳥のように見えた。――いや、鳥だったモノか。

 複数の眼球を持つ頭部はその右半面を砕かれ、内部器官が覗いている。純白の羽根状の物体を撒き散らす、翼のようにも、巨木の枝のようにも見える器官は、左翼のみしか存在せず。はみ出した肋骨と、そこから毀れる臓物。続く下半身は存在しない。その背から伸ばされた触腕の上に、少女は立っていたらしい。
 異形の残骸のフォルムはおぞましい事に、どこか人間の物を連想させた。

 強張った身体の中に冷気が忍び込む。
 わずかに残された僕の理性を置き換えて行くのは、恐怖ではなく狂気。
 異形を背にした少女は、堪え切れない様に笑声を漏らす。

「今度あたしの前に姿を見せたら、ただじゃ済まないって警告したよなぁ?」

 蒼の中の黒を見据えるコートの少女は無言。
 その背後にも異形が形を取りつつあった。
 幅広の長剣を携える甲冑の騎士――ただし、剣に続くのは肩当までの右腕のみ。その大きさは、少女の背丈の三倍はある。

「上等!」

 ドレスの少女は腕を組み、ふんぞり返る。浮かべているのは、獲物をいたぶる猫の表情だ。

「その紛い物を砕いて喰らった後、お仕置きしてやるよ」

 右手指をわさわさと淫猥に動かし、

「足腰立たなくなるまで叩きのめした後、その小さな尻を撫で回してやる!」

 無造作に振り払ったその右腕に合わせ、舞い降る羽根を掻き乱し風が襲い来る。

 怒りからか、白い頬に朱を差した小さな剣士は一歩踏み込み、呼応して巨大な腕も剣を振りかざす。

 どうしてこんな事に巻き込まれなくちゃいけないんだ!?
 混乱し完全に逃げ出す機会を失った僕は、半ば衝動的に、半ば覚悟を決め二人の間に踏み込んだ。

「だめ!」
 
 ジジの警告と同時に、質量を持つ空気の塊が胸を打ち、肺腑の空気が全て吐き出される。胸骨が軋む音が聞こえた気がする。

 いやいや……ここは普通攻撃をためらう場面じゃないの?
 派手に宙を吹き飛ばされながら冷静に考える。アドレナリンの大量分泌のせいか、上空の魔女が口元を歪めてせせら笑うのまでが詳細に観察できた。

 ジジの背後の巨大な腕に叩き付けられるのを覚悟したが、背中に衝撃を感じる事は無く、僕の身体は小柄な少女を巻き込む形で、派手に広場を転がった。遅れて来る胸の痛み。骨にヒビくらいは入っているかもしれない。

 僕が咳き込みながら立ち上がるのよりも早く、コートの少女は転がりながら体勢を立て直し、勢いを殺さぬまま地を蹴り跳躍。再構成した巨大な異形の大剣を足場に、さらに高く舞い頭上の魔女に斬り掛かる。

 軽く三階建てビル並みの高さに戦いの場を移した二人を、僕はただ口を開けて眺めるしかない。

 ジジの長剣が体に触れる寸前、黒衣の少女の身体はぶれて宙に掻き消える。剣士がその姿を再び認識する前に、直上に現れた魔女が放った空気の塊は、彼女を地面に叩きつけた。

「だ、大丈夫!?」

 土煙の中、立ち上がるジジの膝が小刻みに震えている。地面が陥没するほどの衝撃を受けたのだから、常人なら立ち上がれるはずがないのだが。恐ろしいまでの気魄に背筋が寒くなる。

 空に立つ黒いドレスの少女は何故か仕掛けてこない。ジジに一撃を入れた直後、不意に姿勢を崩し、墜ちる剣士に追撃を入れるのを躊躇ったように見えたが……。

 魔女の背後の異形がじわじわと宙に解け始める。それを追うように、黒衣の少女も後退する。

「アスキス!?」

 名を叫び駆け出そうとした剣士は、だが何かを察したように踏み止まり剣を構えた。

「何? どうなったの?」
「危ないから、ここから早く離れた方が良い」
 真剣な眼差しで警告する。

 公園を支配していた異様な風はもう感じないが、別種の気配――これは僕にも理解できる。殺気だ。さわとも揺れていなかった植え込みがざわめく。いつの間にか周りを何かに囲まれていた。

 離れるったって、どこに!? 怯えから半歩足を引いた僕の袖を、ジジがそっと掴む。

「やっぱりダメ」

 どっち!? 状況が状況なら軽く萌えるセリフだが、今はぜんぜん嬉しくない!

「……ここにいて」

 言い置いて公園奥の木立ちに駆け込むジジ。手に持つ得物が、いつの間にか二本の短剣に替わっている。

 何なんだ!? 一体何が起こってるっていうんだ?

 言われたとおり、大人しくここに留まるべきか?
 木立ちの奥から聞こえる剣戟の響きも気になるが、それよりも僕には確認すべきことがある。

「やっぱり……」

 アスキスの消えた方向を、大体の目星を付けて探すと、想像していた通りの物を発見した。
 血痕だ。地面に点々と続く、まだ新しい血の跡を辿り歩を進める。

 公園で襲ってきた連中なのかは解らないが、ジジとの戦闘中、あの魔女は横槍を入れられたらしい。異形の存在や、魔法めいた能力に関係するいざこざなのかも知れないが、それを差し引いても、敵の多そうな性格だ。あれだけ目立つ立ち回りをすれば、格好の的になるのも仕方ない。

 血痕は市の周辺部、開発予定地区に続いていた。作業は休みなのか、人影は無い。フェンスをよじ登り、敷地内に侵入する。

 彼女を探してどうするつもりなのか。公園での異能同士のぶつかり合いでも、僕はただ見ているだけしか出来なかったじゃないか。下手をすれば巻き添えを喰って、命を落としていたかもしれない。どこか危うげで、放って置けないコートの少女ならともかく、ゴスロリの悪魔には、貸しはあっても借りは無い。あんぱんの代金だって貰ってやしないじゃないか。

(観察し続ける事がこれの使命)

 ……いま気が付いた。鞄はともかくパン屋の紙袋は公園で落としたっきりだ。とっくに食べられる状態じゃなくなっているだろうけど。

「ようボンクラ。……手ぶらじゃないか。……あんぱん買って来いって言ったろ?」

 こいつは……! こんな姿になっても。

 黒衣の魔女は、廃材の山の陰に蹲っていた。
 左脇腹を押さえる手が真っ赤に濡れている。生地が黒いから目立たないが、ドレスを重く湿らせる血は、スカートにまで広がっているようだ。

「馬鹿! そんなの言ってる場合じゃないだろ!? 早く傷を何とかしないと」

 腕や足なら心臓に近い部分を縛れば良かったはずだけど、胴となると……どうすれば良いんだ!? 落ち着け、僕。とりあえず傷口を押さえて出血を抑えるくらいしか思い付かない。内臓を深く傷付けていない事を祈るだけだ。

「触んな……掠り傷だ」

 ハンカチを取り出して傷口に当てようとするも拒否される。それでも無理にハンカチを押し付け、救急車を呼ぶべく携帯端末を取り出す。

「……余計な事すんな」

 アスキスが振るった腕が端末をはたき落とす。

「何するんだよ!?」
「無名都市で、神智研の紐付きじゃない医療機関が有る訳ないだろ……あたしを売る気か?」
「……神智研?」

 どこか聞き覚えのある言葉だが思い出せない。

「それが君の敵――戦ってる相手なのか? あのジジとかって娘も? 君を撃ったのも? それじゃあ公園で襲ってきた連中は?」
「いっぺんに訊くな、喧しい。……確かに、あの小娘は神智研の人形だが、あたしを撃ったのは連中じゃあない。……あたしとやり合うつもりなら、無関係のお前をのこのこ連れて来やしないだろう」

 確かに。公園にはアスキスのほうが先にいたのだから、ジジとは完全に遭遇戦。それに、狙撃手を呼ぶ時間も余裕も無かったはず。襲撃者に至ってはジジが斬り込んで行ったのだから、同じ組織に所属する者のはずが無い。

「それに……神智研の連中は、あたしを殺すより捕獲したがってるだろうからな……」

 アスキスの息が荒い。喋らせ過ぎたか。無理に押し付けたハンカチも、既に重たげに紅く湿っている。

「敵だらけだね。感心するよ。それにしても、ジジの様子は捕まえるって感じじゃなかったよ?」

 口元を歪め、小さく笑声を漏らす黒衣の少女。

「ああ、殺す気だったろうな。そのくらいじゃないとこの魔女は止められない」
 胸を張り、傲岸不遜に言ってのける。

 第三者からの不意討ちとはいえ、しっかり喰らってるじゃないか! ……とは口に出来なかった。有利に戦っている様に見えても、小さな剣士はそれだけ集中しなければならない相手だったという事だろう。どっちにせよ、僕にどうこう言えるレベルの話しでない事は確かだ。

「僕がジジと公園に来るのは見えてたはずだろ? 何で逃げなかったのさ?」
「あたしが? 逃げる?」

 馬鹿にするように鼻で笑う。

「あのおすまし顔をぶちのめせるチャンスを、みすみす見逃せるかよ」

 怒りとも悦びとも取れる表情で口元をひん曲げるアスキス。神智研の目的は捕縛、狙撃手の目的は抹殺。場合によっては彼女を説き伏せ、自由よりも生命を優先させる手もあるかと考えていたが、その線は完全に無くなった。

 ふらつく事もなく立ち上がる黒衣の魔女。でも、平気なはずが無い。口元に笑みを浮かべているが、額には脂汗が滲んでいる。この意地っ張りめ!

「無理するなよ、その傷で立てる訳ないだろ!?」
「魔女を舐めんなよ、小僧! ……それに、あたしを撃ちやがった奴が、近くまで来てる頃だ」

 そうだ。狙撃手と襲撃者達が同じ陣営なのかは解らないが、手傷を負わせた獲物を見逃すはずが無い。

 予備動作無しで僕を突き飛ばし、その反動で後ろに跳ぶアスキス。
 青白い光の尾を曳きながら、寸前まで彼女の頭のあった場所を弾丸が撃ち抜いた。

「風穴を開けられたくなかったら、あたしから離れてろ! 行け!」

 轟音で半ば麻痺した耳に、魔女の叫びが突き刺さる。僕と彼女の間を走り抜けた弾丸が、数十メートル先の建築途中のビルの壁面に着弾する寸前にその軌道を変え、金属的な唸り声を上げながら向かってくるのが目に入った。

「そんなのアリ!?」

 叫びながら走る。アスキスがジグザグに走るのに習い、手近な物陰に飛び込む。
 青白い光と音のおかげで位置が把握しやすい事もあるが、目視出来るという事は、かなり速度は落ちてるんじゃないか?

「だからさっさと逃げろって言ったろ!?」

 アスキスが毒づくが、逃げるくらいなら最初からここに来てないって言うの。僕も何でこんな奴の事気にしてるんだか。

 再び魔弾が軌道を変えるのが見える。ジグザグに走り速度を殺し、物陰に逃げ込む事を続ければ暫くは凌げるだろうが、アスキスの体が持たない。相変わらず不敵な表情を浮かべようとしているが、顔からは完全に血の気が引いている。

 一つ息を吸い、物陰から飛び出し、唸り声を上げる魔弾に向かって走る。

「小僧! 何のつもりだ!?」
「奏氏! 小僧じゃない。無有奏氏だ!」 

 青い光の尾を曳きながら迫り来る弾丸に走り寄りながら、鞄で打ち返すイメージで振り回す。
 上手く軌道に合わせ、奇跡的に魔弾を捕らえる事に成功するも、鞄はあっさり突き破られ、反動で僕のほうが吹き飛ばされる。

 後ろの方から、わきゃあ!? とか、魔女のらしくもない悲鳴が耳に入る。ほんの少しでも軌道を変える事が出来たのか? さようなら、僕の全財産。別れを惜しみながらも、アスキスの元へ走る。

「……馬鹿か、お前? だが発想は悪くない」

 期待した自分が馬鹿だったと、表情で雄弁に語りながらも、何かを掴んだのか。魔女の瞳が輝いている。

「身体を晒したお前を仕留めなかった事ではっきりした。あれはあたしを狙った呪殺の類だ。弾丸を止められれば、解呪出来る」

 魔弾は鞄を撃ち抜くのに失った速度を補うためか、空高く舞い上がり、さらに軌道を変える。

「確認しておくけど、病院に行かないって事は、その傷は自分で治せるんだね?」
「……だから舐めんなって。……手足の一本くらい簡単に再生できるっての」
「信じたよ、その言葉」

 必殺の魔弾を阻むべく、アスキスを背に庇う。辺りに素早く目を走らせるが、十分な強度を持ち、尚且つ、動きを妨げずに振り回せる程度の、手頃な重さの鋼材が都合良く転がっているはずもなく。

 仕方ない。覚悟を決め足を肩幅に、左足を前、右足を後ろに引きレの字を描く。見よう見まねの格闘の構え。軽く膝を曲げ、緊張で強張る指をゆるく開閉しほぐす。

 アスキスが僕の意図を察したのか、公園で感じた風が僕の身体にまとわり付くのを感じる。鎧代わりか。不快感は変わらないが、今回ばかりは心強さを感じる。だが、前回と違い、束縛するための物でない事を差し引いても、明らかに勢いがない。僕という盾を得て初めて風を起こした事からも、この魔女が追い込まれている絶望的な状況を思い知らされる。

 来た!

 金属的な唸り声を上げながら迫る魔弾。アスキスの造り出した何重もの風の壁で、それの速さが明らかに落ちているのが見て取れる。この場を凌ぎさえすれば再生も可能だというのなら、多少の痛みはこの際度外視だ。魔女には後でたっぷりと借りを返してもらおう。

 右の平手を叩き込み、勢いが落ちた弾丸をそのまま握り込めるかと思ったが――甘すぎた!

 激しく回転する魔弾は風を、僕の掌を抉り撃ち抜く。当たり前だ。弾丸を手掴みに出来るはずが無い! 避けようも無い位置に弾丸を目視し、頭髪が逆立つのを自覚する。背後のアスキスがありったけの力を注ぎ込んだ風で逸らさなければ、そのまま頭を撃ち抜かれていただろう。

 上方に逸らされた魔弾は、青い光の弧を描き軌道を変える。恐怖と激痛に蹲りそうになるも、踏み止まる。魔女が盛大に血を吐くのを目にしては、耐えてみせるしかないじゃないか。

「ごめん……しくじった」
「……もういい……さっさと逃げやがれ」
「今更無理だって」

 耳障りな金属の叫びがユニゾンになる。2発目だ。魔女を仕留め切れない事に業を煮やしたか、あるいは僕を殺すための弾丸か。どちらにせよ傷付いたアスキスが、速度の違う2発の魔弾から逃げるのは不可能だ。

「もう一回!!」

 叫んで構え直す僕を、アスキスがどんな表情で見ていたのかは解らない。呆れた目なのか、馬鹿を見る目か。感動の類でない事だけは確かだろう。それでも、黒衣の魔女は僕に賭ける事に決めたらしい。再び風がまとわり付くのを感じる。加えて、魔弾に対する向かい風。もはや風で壁を構成するレベルの、魔術的な指向選択が叶わないほど集中力が落ちているのか。

 2発の魔弾は僕の胸部――正確には、僕の背後のアスキスの心臓――を狙って襲い掛かる。まだツキは残っている。頭部を狙われたら対処の仕様が無かった。

 風のおかげで、ギリギリ反応できる程度に速度を落とした魔弾に、両腕を突き出す。辛うじて捕らえた弾丸を、勢いに逆らわぬままに誘導。

 風の圧力と僕の腕、胸。

 魔弾が魔女の心臓を撃ち抜くために、破らなければならない障壁。

「ルールー!!」

 そのわずかなタイムラグで充分だったらしい。アスキスの叫びに応え、僕の眼前に現れたモノが2本の触腕を差し伸ばす。虹色のシャボン玉のようなものを弾けさせて現れたそれは、一見ぬいぐるみのライオンの頭のように見えた。つぶらな黒い瞳を持ち、柔らかそうな繊毛からイカに似た長い2本の触腕を生やしている。見ようによっては、どこか可愛らしく見えなくもない。

 風の壁と掌から二の腕までをたやすく貫き、現在進行形で僕の胸を抉っていた魔弾に、それの触腕が絡み付く。当然のように僕の胸の中に、遠慮無く腕を突っ込んでいる形になるのだが、こいつは一応僕を助けようとしているんだ。文句を言う場面じゃない。痛みを感じるのか、くるるる? と可愛らしく鳴き声を上げるルールーに、僕は肺から溢れる血を零しながら笑いかけてやった。

 背後からはアスキスの低い呟きが聞こえてくる。僕の知らない言葉だ。

 肺臓を磨り潰していた2発の魔弾が、触腕を絡めたまま背中を突き破るのを感じる。

 魔弾の死のユニゾンと、魔女の詠唱が終わるのは同時だった。

「……ルールー……喰っちまえ」

 アスキスの言葉に触腕を引き抜くルールー。まるで僕への気遣いが感じられない。支えを無くして前のめりに突っ伏す僕を尻目に、使い魔は細かい牙の並ぶ口の中に、光を失った鉛玉を放り込んだ。

 痛さを通り越して熱しか感じない。乏しい医療知識を総動員して、肺を潰されても生きていられたか否か、思い出そうと努力する。……思い出さないほうが良いのかもしれないが。弱々しく呼吸するたびに口から血が溢れる。息苦しくて仕方ない。

「……根性あるじゃないか」

 蒼白を通り越して、土気色の顔をしたアスキスが覗き込む。手や足じゃなく、肺も再生出来るの? 口の動きで必死に伝えようとするも、聞き取ろうとしている様子も無い。癪なので、その位置に立つと下着が丸見えだとは、教えてやらない事にする。

 3発目の魔弾が襲って来ませんように。そう祈りながら、僕は意識を失った。

            §

(楽しんでいるな)

 そうでもない。痛い目ばかりだよ。

(名付けざられしものは、砕かれても尚可能性を有している)

 あの娘の可能性じゃないかな。

(いずれアキシュ=イロウの試みと交わる事となる)

 選択されるって事だね。

 巫女でもないのに、なぜ戦うのだろう――混沌の中、フルートの音色に合わせ、舞い踊りながら遠ざかる道化を見送りながら、ふと思いを馳せる。

 
 球状に雲が押しのけられた蒼穹。舞い降りて来る白い羽根に手を伸ばし、折れた指で必死に握り締める。

 繰り返される凌辱。痛い痛い痛い怖い痛い怖い怖い怖い痛い。尼僧服の女が笑っている。

 青いスニーカーのほうが良かったのに。欲しい物はいつも手に入らない。

 初めての敗北。肉に食い込む鋼の感触。それなのに奴は、嬉しそうな素振りも見せずに淡々と。

 ママ、ごめんなさい。ごめんなさい。

 無限に続く回廊。無数に存在する扉。選択を間違えれば、死よりもおぞましい運命が待ち受ける。

 枯れ木のような老婆。埃臭い本の山。必ず見返してやる。人の顔を持つ鼠がせせら笑う。

 右腕から絶え間なく異形を産み出し続ける牧師。彼の苦悩と後悔を知っていようが、引き下がる理由にはならない。

 か細いフルートの音が響く。滅びかけている迷い仔。お前に名前を付けてやろう。決めた。今からお前は――

 どこかで見た顔。人間になりたがっていた、あの子に似ている。

 黒い本を携えた男。肋骨を思わせる不気味な意匠の服。肩に張り付く浅黒い肌の老人。内臓を引き摺る、上半身だけの。目には怯えと深い狂気。

 差し伸べられる白い手。優しい笑顔。闇の中の銀の月。大切な。とても大切な。

            §

 薄暗い中目が覚めた。鉄の臭いがする。夢の内容が急速に拡散し、直前まで自分が置かれていた状況を思い出し跳ね起きる。
 どうやら建築途中の建物の中らしい。まだドアの付いていない入り口から、夕日が差し込んでいる。

 掌を見ると、派手に開いていた穴が見当たらない。胸も同様。残念ながら服はズタボロのままだったが。思い出すと吐き気が込み上げてくるが、体調は悪くない。さすがに魔女。大きな口を叩くだけの事はある。

 ふと気付くと、すぐ隣でアスキスが眠っていた。寝息がかかるほどの距離に狼狽し、呼吸を忘れる。微かに開いた柔らかそうな唇。けぶるようなまつ毛。悪い夢でも見ているのか、柳眉はひそめられている。

「もう嫌だ…………痛いの怖いよ……」

 うなされる少女の子供っぽい呟きに、急速に頭が冷える。当たり前だ。どんなに気丈に振舞っていようが、撃たれれば血も出るし死にもする。怖くないはずないじゃないか。僕と同じく、ドレスの破れ目から覗く脇腹の傷は塞がっている。土気色だった顔色も、蒼白程度には回復している。

「……助けてよ……銀貨……」

 汗で張り付いた前髪を整えてやろうと伸ばした手を止める。僕より先に白く透き通る細い指が、アスキスの金の髪に伸ばされるのに気付いたからだ。

 天使が存在するならこんな姿なんだろうか。顔を上げると、白い羽根が舞い落ちる中、銀髪の少女がそこにいた。
 目覚める前に見ていた夢の欠片が浮かびそうになり――像を結ぶ事無く弾けて消えた。

 うなされるアスキスの傍らに座り、その細い髪を丹念に梳く。愛おしげに。悲しげに。
 白い羽根は舞い降り続ける。文字通りの意味で透き通るようだった彼女の口元が、羽根と共に霞み消え行く寸前、微かに動くのが見て取れた。

 儚く消える少女に手を伸ばそうと無意識に身を乗り出した瞬間、喉笛を握り潰さんばかりの強さで掴まれる。

「何だ、欲情したのか?」

 獣の瞳をしたアスキスと目が合った。

「レディの寝顔をじろじろ見るのは失礼だって教わらなかったか? まさか寝込みを襲うつもりだったんじゃないだろうな?」

 深く静かに激怒している。確かに、気付くとアスキスに圧し掛かる体勢になっている!?

 息が詰まる。弁明するにも、これじゃあ声を出せる訳がないじゃないか。窒息する以前に喉仏を潰されたら、せっかく拾った命もここまでだ。

「働きに免じて今回だけは見逃してやる」

 僕の目顔での弁解が伝わったのかどうなのか、鼻を鳴らして喉に絡めた指を解くアスキス。起き上がり手早く身を整える。

「代わりにもう一働きして貰うか……」

 咳き込みつつも、今目にした光景を話すべきなのかを迷っているうちに、黒衣の少女は話を進める。

「そうだな……あたしは面が割れてる。お前ちょっと行ってこい」

 何処にですか!?

 腰に手を当て、夕日に向かい顎をしゃくる。
 頬に残る涙の跡を除けば、アスキスの表情は再び魔女の物に戻っていた。

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