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ケイオスシーカー

混沌から産まれ、混沌に還る世界。無為に続く永遠を観察し続ける存在・ニャルラトテップの端末である奏氏は、砕かれた神・ハスターを操る少女アスキスと出会う。
地球に顕現し、人類を実験材料にする30柱の神の殲滅を目的とする、神智学研究所と争う彼女は、同時に緑の月の神を崇める教団とも対立する。
神の実験を完遂させるため、教団を裏で操る神智研の狂える科学者・宮坂。儀式により召喚される緑の月の神アキシュ=イロウを、アスキスは奏氏を介して引き出した混沌の力で砕く。
片腕を犠牲にしてまで戦う理由がただ一人の想い人のためだと知りながら、奏氏は彼女に叶わぬ恋心を抱く。

第2話 翠の月の夜

 無名都市の東の外れ。僕達が命懸けの戦いをした開発予定地区とは、駅を挟んでちょうど反対側に、拝月教の施設は存在する。

 関わり合いになるなって言ったのは、あの魔女じゃなかったっけ?

 ともかく、魔弾に撒き散らされた手持ちの服の中から無事な物を見繕い、アスキスに言われるまま教団に見学を申し込んだ僕は、退屈なセミナーを受けている。

 20人程度収容できる会議室に、折りたたみ式の机とパイプ椅子が整然と並べられている。夕方の遅い時間に施設を訪れ、そのまま見学を許可されたのは良いが、ほかの見学者もいない中、一人で教団のPRビデオを見せられている状況。なんとも居心地が悪い。翠月祭やらという儀式の準備に忙しいらしく、案内してくれた女性信者は僕を残して退室している。ドアの外からは絶えず人の行き来する足音が聞こえてくる。

 月詠と名乗る代表の語る話は、月に係わる古今東西の神話を継ぎ接ぎしたような陳腐な内容で、間違っても感銘を受ける類の物ではなかった。月の満ち欠けと人体のバイオリズムの関係など、似非科学に基づく生活習慣の提案や、月の光を利用した自己実現のレクチャーに至っては、そういった知識に乏しい僕からしても、手垢の付いたオカルトレベルにしか思えない。

 気になったのは、巫女と呼ばれる少女、ソーマの言葉だった。

「あなたは緑の月を見たことがありますか?」

 褐色の肌の、アーリア系の特徴を示す顔立ち。ゆるくウェーブする豊かな黒髪に、額には緑色の装飾――ティラカという物らしい。10歳になるかならないかの少女の語る神話は、張り付いた笑顔の中年男性の語る説話よりも、よほど引き込まれる物を感じた。

 本物の月と重なって存在する緑の月。満月の夜にだけ現れるそれから零れる雫は、不死の霊薬アムリタ。口にすれば緑の月の神と一つになり、悩みからも苦しみからも解放されると説く。その手には淡く翠に光る液体の入った小瓶。

 そういえば、儀式の開催を告知するポスターがびっしり貼られた施設ロビーの片隅で、薄紅色の液体の入ったボトルが販売されていた。「アムリタ」と記されたラベルが張られたそれは、色が違うが同じような効果がある物だろうか? ビデオ視聴時にお茶代わりに出されたが、気味が悪いので隙を見て窓から捨てた。

 アスキスは「緑の月を見た者は狂気に囚われる」と言った。世界各地で起こった、関連性の無いはずの衝動殺人で、全く同じ証言が残されていると。そして、数年前から同様の事件がここ無名都市で数件起きているとも。加害者はどれも責任能力を問えないレベルの精神障害者だが、そのほとんどに通院歴が無く、事件は決まって満月の夜に起きているという。

 本当だろうか? 巫女が語っていた内容と符合しすぎて、事実を確認できないままでは、拝月教を揶揄する都市伝説めいた物にも感じてしまう。アスキスの指示は「行って見て来い」という漠然とした物だった。何を見つければ良いのだろう?

 ビデオを見終わり、会議室を後にする。施設内は明日の夜に備えて慌しい状態だ。このまま勝手に歩き回っても怪しまれないかと考えていたら、

「Freeze! 頭を吹っ飛ばされたくなけりゃ、動くんじゃないさ!」

 背中に硬いものを突きつけられ、文字通り身動きを封じられる。
 頭? 心臓じゃなくて?

 場違いに食欲をそそる香辛料の香りが漂う。
 どこまでが本気か計りかね、ゆっくり両手を上げながら、恐る恐る背後を伺ってみた。
 
 ガンマン……いや、ガンウーマン……か?

 長い髪をポニーテールにした若い女がそこにいた。西部劇で見るような、皮のベストにウェスタンブーツ、ご丁寧にレザーチャップスまで穿き込んでいる。腰にはガンベルト。そして何より、右手にはごつい6連弾層の銃。左手に抱えた紙袋からは、芳しい香りを放つカレーパンが覗いている。
 思わず脱力したが、間違いない。こいつが僕らを襲った魔弾の射手だ。

「……僕をどうするつもりですか」
「うん? あー……どうすっかな……」

 嬲るような焦らし方ではない。本当に先の事を考えずに銃を突き付けたのか? 軽く眩暈がしてきたが、対応次第では無事に切り抜けられる可能性があるという事か。文字通り、トリガーを引くような――引かせるような――行為をしなければ。

「お帰り、お姉ちゃん」

 馬鹿みたく立ち尽くす僕達を救ってくれたのは、廊下の奥から駆けて来た一人の少女だった。

 まだ7つか8つといったところか。褐色の肌の、アーリア系の特徴を示す顔立ち。ゆるくウェーブする豊かな黒髪に、額には緑色の染料で描かれた装飾。身を包むシンプルなデザインの白のワンピースが、健康的な肌の色を際立たせている。

 顔中に浮かべていた笑顔が、僕の姿を認めると、微かな戸惑いを経て、探るようなはにかみに変わる。

「誰なの?」
「奏氏。無有奏氏」

 少女のくるくる変わる表情に引き込まれて、僕は素直に応えていた。

「はじめまして、私はソーマ。お姉ちゃん、興味のない人無理矢理つれて来ちゃダメだって、いつも言ってるじゃない」

 あー、とかうー、とか不明瞭な唸り声を上げて、少女に対する言い訳を考えていたらしい女は、慌てたように紙袋を差し出す。

「そんな事よりソーマ、チャダの店でカレーパン買って来たぞ!」

 そんな事よりって……。この人は頻繁に他人に銃を向けているのか? 僕の扱いは、何やらうやむやになりつつある。

 少女は歓声を上げて、受け取った紙袋を覗き込んでいる。周囲に広がる香辛料の香り。カレー専門店の物なのだろうか。午後3時を過ぎた頃だというのに、朝から何も口にしていない事を思い出す。

「お姉ちゃん、買いすぎ! またあるだけ買い込んできたの!?」

 呆れたようなソーマの声。袋の口からサクサクの生地が覗いているから、恐らく20個ほど詰まっているのだろう。

「わたしは一つでお腹いっぱいなのに」
「ソーマは細っこいから、もっと食べなきゃ駄目さ。それに、売り切れ御免の人気商品なんだから、ある時に買わないと損ってもんさね。どうせ月詠の財布だし」

 気楽に言い切る銃使いに、少女のお小言が始まる。お姉ちゃんはどうしてそんなに経済観念がないの、お財布にあるだけ使っちゃうクセ直さないといつかたいへんな目にあうよ、教祖さまのこと呼び捨てにするのはダメだよと、言われっぱなしのガンウーマンは見る見るしょげ返る。……どっちが年上なんだか。

 このまま逃げ出せないかと、そろりそろりと後ずさりで出口に近付いていた僕の腹の虫が、派手に鳴る。銃使いに小言を並べていたソーマの目が僕に移った。大きく見開かれた丸い目に、なぜか赤面。

「おやつにしようか」

 満面の笑みでの提案に、僕は逃げる機会を失った。

            §

「それじゃあ、魔女の仲間って訳じゃあないんだな?」

 薄紅色の水の中、白い水着に身を包んだソーマが浮かんでいる。

 マンゴー入りのスウィート・ラッシーとカレーパンを振舞われた後、ソーマの日課だという瞑想に付き合っている。地下に作られたプール――といえば聞こえは良いが、奇妙な事に側面はガラス張りで、四辺それぞれ15m程、水深5mのそれは、水槽というのが本当の所だろう。今は僕達の他に人はいないが、こんな所で観察されながら泳ぐソーマは、一体どういった存在なのだろう。

「……目の前で人が殺されかけているのを、無視出来なかっただけです」

 ガラス面の横に設置された、作り付けのはしごを登った先。狭いプールサイドに据えられた、テーブルを挟んでの銃使いの念押しに、正直な気持ちを応える。

 お人好しだねぇと、呆れたようにため息を吐くと、銃使いはビーチベッドに身を沈めた。

 武内海南江(たけうち・かなえ)というのが彼女の名前らしい。本人は銃を構えて「あたいの事はセブンライブスと呼びな!」と決めていたが、ソーマにむやみに銃を振り回しちゃ危ないでしょ、とたしなめられてすぐにホルスターに仕舞った。

 ……本当に、どっちがお姉ちゃんなんだか。

 彼女達の話によると、ソーマは緑の月の神の巫女で、信徒に不死の霊液・アムリタを授ける存在だとか。満月の夜だけに、本物の月と重なって現れる緑の月。それから零れるアムリタが、何処に落ちるかを告げられるのは、神託を受けられるソーマだけだという事らしい。

 プールでの瞑想は、緑の月の神との交感を深める為だという。「これが全部アムリタなの?」という僕の問いに、巫女は「博士が作った実験用だよ」と応えた。新興宗教にありがちな、疑似科学の類だろうか。

 ソーマの前では話さなかったが、海南江は、拝月教の教祖である月詠に雇われた、用心棒らしい。緑の月の神の力を狙うアスキスから、巫女であるソーマを守っているという話だ。

「人が誰かに復讐を考えたとき、例えその全てを懸けたって叶わない事がある。このセブンライブスは、そんな時の為にある銃さ。命を捧げ、憎い相手を必ず殺す。あたいはその代行をしているだけさ」

 割が良かったから依頼を受けたという銃使いだったが、そう語る時の瞳には暗い炎が見え隠れしていた。この人も自覚したうえで人殺しをしている以上、他人には語れない過去があるのだろう。

「ねえ、見てるだけじゃつまんないでしょ。奏氏も泳がない?」

 瞑想を終え泳いでいたソーマが、プールサイドに腕をかけ、上目遣いで覗き込んできた。初対面の時もそうだったが、どこか探るような気配が感じられる。

「うん? ごめんね。水着とか持ってないし」

 だいたい僕は泳げたのか? プールに入ってから確認するには、5mの水深はちょっと怖い。

「女の子の誘いを、無下に断るモンじゃないさ!」

 笑いながら僕の腕を取り、椅子から引き起こす海南江。

「ちょ……待っ!?」

 そのままプールに蹴り落とされる。

 混乱してもがくも、プールの縁に手が掛からない。服を着たままなせいもあるだろうが、水とは比重が違うのか、身体が浮きにくい。薄紅色の景色の中、少女のしなやかな肢体が、慌てる僕をからかう様に、自由に泳ぎ回るのが目に入る。

(ああ、やっぱり。初めまして、ニャ●●●●ップの端末。ちゃんと見ててね)

 ソーマの声が響いてくる。アムリタの中で、喋れるはずは無いのに。

(教団のみんなだけじゃなく、この街中、この国中、この星中の人たちと一つになるんだから)

 ごぼりと吐き出した空気に代わり、アムリタが肺に浸入する。イルカのように楽しげに泳ぐ、幼い巫女の託宣を聞きながら、僕の意識は闇に落ちた。

            §

「大丈夫? ごめんね」

 幼い少女の声で気が付いた。大きな瞳に、心配そうな色を浮かべたソーマが覗き込んでいる。

「大丈夫だって、ソーマ。あたいが応急手当したろ?」

 気楽そうな海南江の声に、思わずマウス・トゥ・マウスを連想して唇に手を当てるも、胸に乗せられたままのブーツが目に入る。

「……とりあえず、足退けて下さい」

 悪いねと、まるで悪びれた様子もみせずに、僕の胸から足を下ろす銃使い。ひどい。せめて手で処置してくれるくらいの気遣いはないのか。びしょ濡れだ。鞄は魔弾に襲われた時に落としたきりだから、着替えの用意があるはずもなく。

「タオルと着替えは用意しておいたから」

 白いバスタオルを差し出すソーマ。ああ、労わりの落差に涙が出そうだ。とりあえず、礼を言って受け取る。

「……ありがとう」
「濡れた服は洗って乾かしておくから、明日取りに来ると良いよ」
「明日?」

 また此処に来いというのか!? なんとか理由を付けてクリーニングを辞退しようとする僕に、ソーマは笑顔で応えた。

「うん。明日は翠月祭だから」

            §

 明日の夜、拝月教は祭りを開くらしい。街中に貼られていたポスターは、それ告知するための物だったようだ。ソーマたちと別れ、明日の夜に備えて慌しい施設内の廊下を歩いていると、

「見ない顔だな。見学者かね?」

 いきなり背後から声を掛けられて驚いた。
 白衣に身を包み、分厚いレンズのメガネを掛けた40絡みの男。手足がひょろ長く、身長もそれなりにあるのだが、恐ろしく姿勢が悪いので威圧感は少ない。

「あ、はい。教団の方のお話を伺って、今から帰ろうと……」

 怪しまれないよう、星審学園の生徒だと説明する。……却って怪しまれたか? ようやく解放されたというのに。正直早くこの建物から離れたい。

「ふむ。星審の生徒か」

 僕の顔を繁々と覗き込み、しきりに顎を擦っている。何とも居心地が悪い。

「来たまえ」

 男は僕の返事を待たずに歩き出す。人の話を聞かないタイプだろうか。正直これ以上この施設にいたくないんだけど……。ここは素直に従っておこう。

 四畳半ほどの雑然とした部屋に通された。机の上には書類の山に試験管立て。何かの薬品の臭いがする。開いたままのドアから覗ける隣室は、どうやら研究室らしい。男は床にまで溢れた書類の山を、適当に隅に寄せスペースを作ると、僕に備え付けのパイプ椅子を勧めた。

「私は宮坂といいます。拝月教の……そうだな、顧問といった所か。君は?」
「……無有奏氏です」
「ふむ、そうか。やはりそうか」

 長い指を何度も組み直しながら、一人得心する宮坂。

「君は神智学研究所という組織を知っているかね? 神を智る学問と書いて、神智学だ」

 机の向こう、書類の山の間から宮坂が問う。

「神智学研究所……? いえ」

 嘘だ。もどかしい。どこか聞き覚えがあるような気がするのだけれど。

「知らないはずが無い。無有君、君を保護した組織の名前だよ」

 緊張が走る。この男は僕の事を知っているのか? 学者のようだから、関係者なのかもしれない。
 発見された状況が状況だけに、漠然と国の防疫専門機関かと思っていた。そういえば、収容されていた隔離施設で何度か耳にしたように思う。しかし……神を智る学問?

「君を保護し検査した施設も、所属する学園も、おそらく後見人も。皆、多かれ少なかれ神智研に係わりを持つものだ。この無名都市は、取り分け彼らの影響の強い場所だと言えるな」

 アスキスが口にした神智研というのはその組織の事か。かちりかちりと音を立ててパズルが組み上がって行く感覚。だが僕が抱くのは爽快感などではなく、薄ら寒い不安めいた違和感。

 何処までが仕組まれた物なんだ?
 この男は何を話そうとしている?

 半ば影に沈んだ顔の中、分厚いレンズだけが蛍光灯の光を反射している。表情が読めない。

「神智学自体は19世紀のオカルティスト、エレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人が提唱した物だが、神智学研究所は、彼女が設立した神智学協会とは間接的な関わりしか持たない。設立時の主要メンバーに、協会関係者が多く存在した事からその名を採ったに過ぎない。彼らは神の存在を信じている。いや、そう言うと語弊があるかな。訂正しよう。神の存在を認識している」

 神の存在? 僕が巻き込まれた、街一つを滅ぼす事件を起こした宗教団体。アスキスの使う魔法めいた力と背後の異形。緑の月を拝む者たち。巫女。神を智る学問。神。神……?

「馬鹿げている、そう思うかね?」

 僕の沈黙をどう解釈したのか、白衣の男は話を続ける。

「神などと表現して理解を妨げるなら、人をはるかに凌駕する存在だと認識すれば良い。それぞれ異なる起源を持つが、星々の海を渡り次元の壁を越えこの地球に顕現する。どれも単体で星の環境を作り変え、選択した種を次の段階に引き上げる程の力を持つ。まさに超越種だよ」

 顔を上げ目を合わせてくる。分厚いレンズ越しの色素の薄い瞳は、奇妙なほど澄んでいた。

「『黒の淵』と呼ばれる預言書が存在する。紀元730年頃に記された旧い書物だ。そこには神々の襲来とそれに仕える異形の種――奉仕種族の暗躍、神を崇める者達による召喚事例とその対処法が記されている。物理接触出来る者は限られており、今は神智研所長の裁慧士郎(さばき・けいしろう) しか紐解く事を許されていない。故に、自分たちが預言書などという、怪しげな物に従って行動しているとは考えもしない構成員も多い」

「事実預言に従い、すでに神の一柱を砕く事に成功している。……11年前になるか」

 観察するような眼差し。

「私も到底信じる事など出来なかったよ。この目で見るまでは」

 やはりこの男も神智学研究所の関係者だったという事か。宮坂の話は続く。

「ハスターと呼称されるそれは、巨大な猛禽に似た姿をしていた。もっとも、形態を変化させられるそうだから、地球の大気に最適化した瞬間に毀され、そのままの姿を保っているだけなのだろうがな。初めて対面した時、私は屍骸でしかないそれに、身体の奥底から湧き上がる恐怖と畏敬の念を止められなかった。生物としての存在の深さと位階の違いを直感で理解した。科学者らしくない話だと笑うかね?」

 無言で首を振る。アスキスの背後に浮かんだ異形の存在から、僕も同じ物を感じたからだ。

「『久遠に臥したるもの死することなく 怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん』。あれらは人の力では『砕く』事は出来ても、『滅ぼす』事はまず不可能だ。屍骸であろうが欠片であろうが、そこに存在するだけで周囲に影響を及ぼしてしまう……」

 右手で顔を隠すようにして、眼鏡のブリッジを押し上げる宮坂。そのまましばし黙考するかのように言葉を途切らせる。

「自分より優れた存在に出会った時、人間の反応は大きく二つに分かれる。一つは恐れ、忌避する。それが叶わない場合は対象を抹消しようとする。神智学研究所というのはそういった組織だ」

「……もう一つは?」

「神々は旧支配者などとも呼称される。『黒の淵』に記された中の何柱かは、かつて地球に君臨していたからだ。それだけの力を持ちながら、一柱たりともその支配を継続していない。何故だと思う?」

 僕の問いには応えず、続けて問い掛ける科学者。僕には答える事が出来ない。

「簡単だ。支配する気など初めから無いのだよ。彼らが行おうとしているのは、侵略ではなく実験だよ。私は数多くのサンプルを目にしてきた。手足の骨が消失し、皮膚が鱗状に変質したもの。極低温下でしか生きられず、消化器官も地球以外の植生に対応する様組み替えられたもの。深海の高圧に耐え、魚類に酷似した外見を持つもの。炎の中で、焼き尽くされる事なく苦しみ続けるもの。その全てが元は人間だったなどと、君は信じられるか?」

 語尾が微かに震えている。宮坂の隠し切れない興奮が伝わる。

「私は科学者として、人が次の段階に進む瞬間に立ち会えるのが何より誇らしい。ただ畏れ、知る機会を捨てるのは科学者として、いや、人として恥じるべき姿勢だ。君はそう思わないか?」

 態度は冷静なのに、目には狂おしいほどの熱。僕は宙に浮いたままの問いの応えを、自分で見付ける事が出来た。

 もう一つは同一化だ。その対象と同じになるか、その一部として存在する事が出来れば、畏怖と羨望が容易に他への優越感に転じる。

「もはやこの世界には三種類の人間しか存在しない。信徒か贄か、抗う者か。誰もが当事者だ。……そこで君の事だが」

 なぜここで僕の話になる? 得体の知れない不安が圧し掛かる。

「君が巻き込まれたのも、神々を崇め顕現を試みる信徒達の引き起こした事件――神智研が召喚事例と呼ぶ物――と考えられた。神の召喚には犠牲が付き物だからな」

 犠牲。神への供物。広い空間を何処までも浸す黒い泥。隠微で甘やかな腐臭。その全てが元は人間だった物の成れの果て。あの光景も、その神を呼び出すための生贄だったと言うのか。

「私が担当しているソーマも、君と同じ召喚事例の生き残りだ」
「ソーマも!?」

 屈託の無い笑顔が浮かぶ。あの少女も、僕と同じ経験をし、生き延びている?

「ふむ、既に面識があるのかね。まあ良い。8年前の満月の夜、インドのジャンムー・カシミール州山間部の小さな村でその事件は起きた。一夜にして住民全てが狂死した中、母親の胎内にいた女児だけが奇跡的に生き残った。神智研に保護され、ソーマと名付けられたその娘が言葉を覚えたとき、初めて彼女が選ばれた巫女だと判明した。村人達は神を呼ぶ生贄ではなく、巫女を産む犠牲だったのだよ」

 息苦しい。喉が渇く。何十人、何百人をも供物にして選ばれる存在。それじゃあ僕も……?

「ソーマが語る『緑の月の夜に落ちる雫』の話は『黒の淵』に記されたアキシュ=イロウに関する預言と一致する物だったらしい。アキシュ=イロウに関する研究を任された私は、知れば知るほどその存在に魅了されて行った」

「……そして転向したという訳ですか」

 宮坂は応えない。だがその沈黙が答えだった。おそらく、拝月教をお膳立てしたのもこの男だ。

「だが君のケースでは、預言書に記された神を崇める宗教も、それに仕える奉仕種族の存在も確認されなかった。『黒の淵』にさえ記されていないイレギュラーな出来事なんだよ。君は一体何者なんだろうね?」

 動悸が激しくなる。解る訳がない。そんなのは僕自身が知りたい事なのに。

「『黒の淵』には、襲来を預言された30の神とは別に、超越したシステムとも呼ぶべき存在について記されている。【混沌】、【門・道・鍵】、そして【使者・道化】」

「観察し続ける事がこれの使命」

 表情を消し去った貌で、僕でない僕が応えるのを知覚する。

「そうか。やはりそうか。ニャルラトテップの端末。観察者が現れたという事は、此処で事態が進展するという事か。人類を素材にしたカンブリア紀の大爆発の再現を、この目で観察できる。その瞬間が来るのがとてもとても待ち遠しい。もうすぐだ。もうすぐだ」

(狂っている)

 それと狂人とのやりとりを、これは期待とも不安つかぬ茫洋とした感覚のまま眺め続けた。

「よう、上手く行ったみたいだな」

 寮まで送らせようという宮坂の申し出を辞退し、日の落ちた街を歩む僕に、闇から滲み出た黒衣の魔女が声を掛けた。
 ちょっと話があると近場のファミレスに連れ込まれる。……なかなか寮に辿り着けないぞ。夕食時の店内は程よく込んでいたが、すぐに席に案内された。

 なんだか凄く視線を感じるが、見られているのは僕じゃなくアスキスの方だ。ゴシックドレスの人形のように可憐な少女は、何処にいても人目を引かずにはいられない存在だろう。本人は堂々としているが、僕は恥ずかしいような自慢したいような、複雑な気持ちだった。

「働いてくれた礼だ。何でも好きな物を食べてやる」
「!? 『何でも好きな物を食べても良い』の間違いじゃないの!?」
「ふうん。本当にそれでいいのか? 極太あらびきソーセージでも、濃厚クリームシチューでも良いんだぞ?」

 そっと人差し指で唇を撫で、上目遣いで妖しく微笑むアスキス。

「な……何を……」

 言ってるんだこの魔女は。言いよどむ僕の頭の中で、ふっくらした桜色の唇がソーセージをはむ映像や、とろりとした白い液体が零れるのを小さな舌が舐め取るイメージが、もやもやと繰り広げられる。

「ご注文はお決まりでしょうか?」
「ほうれん草とベーコンのパスタ」
「!! 何でだっ!?」

 アスキスの迷いの無い速やかなオーダーに取り乱し、テーブルを叩いて立ち上がった僕を、ウェイトレスが脅えたような目で見る。

「大声を上げるな、迷惑だぞ。ほら、お前も早く決めろ」

 恐ろしく冷めた目でたしなめる魔女。……こいつはッ!!

「……チキンドリアを……」

 がっかり顔でウェイトレスを見送る僕を、にやにや笑いながら眺めるゴスロリ悪魔。

「何だ? 期待したのか?」
「してないよ!!」
「ならいい。ほら、ドリンクバー行って来い。あたしはウーロン茶な」

 一瞬、コップの中にゴキブリ的な物を入れてやろうかと、凶悪な思考が過ぎったが、都合よくそんな物が這いずり回っているはずもなく。第一、可愛い悲鳴を上げさせるどころか、おぞましい報復を受けるのが関の山だ。割に合わない。

 黒衣の魔女の用件は言われずとも解っていたので、僕は拝月教のセミナーや宮坂との会談の内容を話して聞かせた。所々で意味ありげに口元を歪めて見せたが、アスキスは口を挟まずに僕の話に耳を傾けていた。

「宮坂さんの言っていた、11年前に砕かれた神っていうのが、アスキスの使う力の源だよね? 君は神智研の関係者じゃないの? どうして一人で戦っているのさ?」

 ハスターを砕いたのは神智学研究所。その研究をし、力を利用する方法を見出したのもおそらく同じ組織のはず。それなのに、ハスターの力を振るうアスキスは神智研との接触を頑なに拒み、構成員のジジとも戦っている。

 僕の問いには答えずに、届けられたパスタを摂り始めるアスキス。半分ほど食べてフォークを置き、ナプキンで口元を拭ってから語り始める。

「神智研ってのは形の無い組織だ。直轄の研究班や対策班は100人にも満たない。そのくせその影響力は各国の財界、政界、軍部にまで及ぶ。実在する神の力は、魅力的なカードだからな」

 口元を歪め、あざけるように吐き捨てるアスキス。確かに神を砕き、その力だけを利用する事が出来れば、医学や軍事など、様々な技術が飛躍的に進歩するだろう。

「利害関係によって何処までも手を広げられる反面、条件次第では身内同士でも争うような事も起こる。一枚岩じゃ無いってこった」

 白衣の科学者の顔が浮かぶ。神智研に籍を置きながら、神に転向した男。

「その力を一国だけの物、一人だけの物に出来るなら――っていう事?」

 皮肉めいた光を瞳に浮かべ、無言で首肯する魔女。報道が規制されている理由も腑に落ちた。でも、そんな事をしている場合なのか?

「誰も信用出来ないから一人で戦ってるって言うの!?」

 人類を標的に襲来する存在。その顕現を許せば、ヒトという種の在り方さえ揺るがしかねないというのに。

「宮坂から『黒の淵』の事は聞いたんだよな? 1300年も昔の狂人の戯言に踊らされるなんて、滑稽だと思わないか?」

 アーモンド形の瞳を細め問うアスキス。強い意志を感じさせる輝きに、応えに躊躇する。乾坤一擲の戦いだからこそ、自分の信じられる物だけに命を懸けたい。人として当たり前の姿勢だと思う。それなら、

「……アスキスの目的は一体何なの? 一体、何のために一人で戦ってるのさ?」
「何だ? 心配でもしてくれてるのか?」 

 なんだか胸が詰まって料理を摂る手が止まる僕に、アスキスがテーブル越しに身を乗り出してくる。

「……何?」

 細い指が頬に触れる。
 顔が近い。甘い薔薇の香りがする。吐息さえ感じられる距離で。

「翠月祭には顔を出すつもりなんだな? それならもう一仕事して貰うぞ」

 宝石のような碧の瞳は、吸い込まれるような深い輝きを――

「……お客様、ラストオーダーの時間ですが……」

 肩を揺すられて目が覚める。どうやらテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。色々ありすぎた一日だ。疲れがピークに達していたのだろう。

 向かいにいるはずのアスキスの姿が無い。化粧直しかと30分ほど待って見たが、どうやら僕を残して姿を消したらしい。ふと、テーブルの端に置かれた伝票が目に付く。……おごりじゃなかった。支払い時に確認すると、ドリンクバーじゃ飲めないアイスロイヤルミルクティと、極太あらびきソーセージが追加されていた。

「お客様……」

 無言のままレジ前の柱に頭を打ち付ける僕に、店員が可哀想な人を見る目で声を掛ける。財布の中身は一日で半分にまで減少した。

            §

 星審学園の寮で一夜を過ごし、明けて翌日、僕は正式に編入手続きを済ませた。学園生活の初日が学期末試験の答案返却日という、恐ろしく間の悪いタイミングだったが、編入試験を済ませた僕にとっては、ある意味好都合だった。クラスメイト達は試験結果に一喜一憂する事に気を取られ、奇妙な時期に転入してきた僕を詮索する余裕までは無いようだった。……いや、別に寂しい訳じゃない。答案を解説する教師の声を聞き流し、昨日の事件をゆっくり整理出来た事だし。

 宮坂との会談は、その内容があまりに理解を超えた物だったからか、正直最後の方の記憶がぼやけている。直截的には語らなかったが、拝月教の崇める「緑の月」とやらも、「黒の淵」に記された神の一柱だという事ではないのか。翠月祭への招待を受けたが、この儀式が召喚のための物だとすれば――

 広い空間を何処までも浸す黒い泥。隠微で甘やかな腐臭。その全てが元は人間だった物の成れの果て。

 ――あれに似た光景が再現されるという事か。もしそうだとすれば、僕は……。

 ファミレスでの食事の際、アスキスにはこちらの携帯端末の番号を教えてある。アスキスの物も聞き出そうとしたが、断られた。魔女はやっぱり端末じゃなく、黒猫やカラスを使うのかと訊ねたら叩かれた。端末くらいは持っているらしい。恐らく、僕の携帯端末が後見人――間違いなく、神智研の構成員――に持たされた物である事を警戒しているんだろう。

 ……あれ? それじゃあ自分でこっそり契約した端末なら、ナンバーを教えて貰えるんだろうか。アスキスとのプライベートな通話やメールを夢想して、5秒で挫折した。罵声と皮肉と嘲笑しか思い浮かばない!

 午前だけの授業を済ませ、クラスメイトがファーストフード店で催してくれた歓迎会を受けるも、上の空で楽しめなかった。ずいぶんぼんやりさんだと思われた事だろう。

 空騒ぎの間中、僕がずっと考えていたのは、ゴスロリの悪魔の事ばかりだった。負けん気の強い彼女の素直な笑顔を想像してみるも、上手く行かない。何故だか銀髪の少女の儚い笑顔に擦り替わる。彼女の前でなら、アスキスは無邪気に笑って見せるのだろうか。そう思うと、少しだけ胸が苦しくなった。

 日が沈み月が昇る。アスキスからの連絡は未だない。自分で決めろという事だろうか。

 空に浮かぶ月はあくまでも白く。それが翠に輝く時、一体何が起こるというのだろう。幼い巫女の語ったように、月と一つになり、全ての苦しみから解放されるのか。歪んだ科学者の言うように、別の存在に作り変えられるのか。

 鳴らない端末を弄ぶのをやめ、僕は僕なりの決断を下した。

 翠月祭の会場はそれなりの人出で賑わっていた。
 信徒だけではなく、その家族や一般参加者もいるのだろう。施設前の広場にテントや折りたたみ式の机を設置し、焼きそばやかき氷やフランクフルト、例の怪しげな薄紅色の飲料が安価で振舞われている。フレンドリーな演出で敷居を低く見せるつもりなんだろうが、代表の著書や教団のグッズは、見るからに売れていない。その毬藻にしか見えないストラップ、本気で売れると思ったの?

 代表である月詠の説教が始まると、一般参加者のほとんどは帰ってしまった。残るのは信徒と、この後執り行われる儀式に興味がある者達のみ。ざっと数えて50人強といったところか。やがて二人の女性信徒に付き添われて、白いローブに身を包んだソーマが会場に姿を現した。胸元には翠の液体を閉じ込めた小瓶のペンダントトップ。「巫女様」や「ソーマちゃん」と、信徒達から声が掛かる。「ソーマたん」はあんまりだと思ったが、巫女はその全ての声に笑顔で応えた。代表とのカリスマ性の差を目の当たりにし、思わず苦笑がもれる。

 セミナーを受けた時も、どこかしっくりしない接木めいた物を感じたが、周囲から聞こえる話を総合すると、月詠の興した新興宗教に、後からソーマを迎えた事がその理由らしい。紛い物の宗教に本物の神を結びつけて箔を付けたのか、実存する神を隠すために偽りの宗教を利用したのか。どちらにせよ、顧問を名乗る宮坂の仕組んだ事だろう。

「こんばんは、皆さん。ついにこの夜を迎える事ができました」

 ソーマが大人びた口調で語り始める。一声で信者が引き込まれるのを、月詠が憮然とした表情で眺めている。

「みなさんと今夜を共に過ごせる事を、心から嬉しく思います」
「いいぞ、ソーマたん!」

 と、弁えない男の声が掛かるも、彼女は笑顔で返す。マスコット的な意味合いでも愛されているのだろう。俗っぽい中年男性と比べれば、僕だって彼女を選ぶ。……ロリコン的な意味では無しに。巫女はちらりと代表に目を流し、

「例年行われてきた翠月祭は、今夜のための予行演習のような物です。今日の良き日を迎えるため、皆を導いてくださった月詠様に感謝を表しましょう」

 台本に無かった台詞なのか、湧き上がり次第に大きくなる拍手の渦に、月詠が相好を崩しつつ応える。頭の回転が速く、人の感情を読むのもうまい。喝采にやにさがっている中年男より、よほど教祖の器に相応しい気がする。

「今日は正しい星辰の位置を示す夜。約束します。ここにいる皆さんは必ず緑の月を目にし、直にアムリタを授かる事ができると。共に神と一つになれる悦びを迎えましょう」 
「ソーマたんと一つに!」

 自重しろ。ソーマに従っていたローブ姿の女性信徒が、声の主を引き摺って行くのが目に入る。星辰――星の事か。間もなく月は中天に懸かろうとしている。件の男は明らかに羽目を外しすぎだったが、巫女の登場とその言葉により、場の雰囲気が日常から変化したのを感じた。この場にいる者のほとんどが、何かが起こる予感めいた物を抱いているようだ。

 そして儀式が始まる。

            §

 正面の祭壇に、金糸で刺繍を施されたローブを身に纏う教祖が向かい、その後ろに、信徒達が円を描くように立つ。中心には巫女の姿。
 見学者はその様を少し離れた所から眺めている。僕もその中の一人だ。
 巫女を囲む信徒達の中に宮坂の姿はない。

「る・らー・る・いらー・んぐないー・んぐなうー……」

 夜空を見上げ、両手を差し伸べ。鈴を振るような声で、ソーマが月に唄を捧げる。皆一様に空を見上げている。怪しげな儀式が、幼い少女ただ一人の存在で、厳粛な物に様変わりする。

 アスキスは現れないのか?

「ゆ・いらー・ゆ・らーる・い・うるえ・いあー・いあー……」

 うっとりと、眠るような眼差しで月を見上げるソーマ。澄んだ声が夜空に響く。

 ソーマの胸元に揺れるペンダントが、淡く翠の光を放つ。気のせいか、降り注ぐ月の光も微かに翠がかってきた。本当に召喚が始まったのか!? 信者達は軽いトランス状態にあるのか、うっとりとした顔で月の光を浴びている。

 見学者達がざわつき始めた。僕や信者達だけでなく、彼らの目にも、同じ光景が映っているのか?

 なんだか胸元がむずむずする。こんな時に、蚊にでも咬まれたか。

 不意にソーマの詠唱が中断される。何が起こったか理解出来ずに静まり返る中、どこかから微かな忍び笑いのような声が響いてくる。

「来るよ……。風に乗って悪魔が来る」

 怯える巫女が、震える声で不吉な託宣を下した瞬間。僕の胸元にシャボン玉のような虹色の球体が弾けると、ふわふわした繊毛を持つ使い魔・ルールーが飛び出した。

「うわああああ!?」

 驚く僕に構う事無く、宙に浮かぶ使い魔は2本の触腕を複雑に動かす。奇妙な風が地面に不可視の魔方陣を描くのを、舞い上がる土煙で理解した。

「あははははははははははははは!!」

 悪役めいた高笑いと共に、腕を組んで踏ん反り返る黒衣の魔女が宙に滲み出る。

「何重にも結界が張ってあったが、お前のおかげで楽に入れた」

 むずむずしていた胸元に血が滲んでいる。僕に埋め込んだ触媒を利用して使い魔を送り込み、さらにその使い魔を足場に、敵地に無理矢理捻じ込んだという訳か。

「僕を利用したのか!?」
「ありがとな、奏氏」

 アスキスの一言で何も言い返せなくなる。燐光を纏う細い指が僕の胸元を撫でると、小さな傷口は跡形も無く塞がった。それに今、名前で呼ばなかったか? そんな些細な事で頬が熱くなるのを自覚する。下僕として調教されつつあるのか、僕は?

「あっちはあっちで何か手を回したようだ。この件に神智研の介入はない」

 それは横槍を入れられる心配が無いという事だが、同時に手助けが見込めないという事でもある。緑の月の顕現を僕達だけで、いや、僕は数に入れていないはずだから、一人で阻止するつもりなのか。

 見学者達は驚いて逃げ出すか、遠巻きに様子を見ている。虚ろな眼差しのままの信者達の中から、巫女を射抜く魔女の視線を遮るように、長い髪をポニーテールにした、白いローブ姿の若い女性信者が立ちはだかる。

「お姉ちゃん!」

 ソーマの切羽詰った叫び。駆け寄り縋り付く。

「あんたは儀式を続けな。神様呼んでみんなを幸せにするんだろ?」
「お姉ちゃんも一緒じゃないと!」
「……どうかな。あたいは一人でブラブラするのが性に合ってるから」

 泣き出しそうなソーマの頭を、くしゃりと乱暴に撫でる。

「奴を倒してから考えるさ。行けよ、ソーマ」
「でもあいつは……」

 怯えた目で黒衣の魔女を見る。

「大丈夫」

 巫女にウィンクして送り出すと、ローブを脱ぎ捨てる。現れるのは西部劇で描かれるガンマンのような姿。

「初めましてだな、銀の鍵の魔女。あたいはセブンライブス。金さえ貰えば神でも悪魔でも殺してみせる、雇われ者のガンマンだ」

 セブンライブスの銃が、ホルスターの中耳障りな金属音で唸りを上げる。

「今回は弾層をフルに充填して貰える、やりやすい仕事だったはずなのに、魔弾を三発も使ってまだ仕留められないとはね。おまけにその後足取りが掴めずに、探しに出した信徒達まで戻りゃしない。ちょうど良い。あんたから顔を出した以上、今度は逃がしゃしないよ!」

 馬鹿にしたように鼻で笑うアスキス。

「影からこそこそ狙い撃ちしか出来ないくせに、偉そうにするな。ティンダロス――」

 銃使いの顔色が変わる。

「――しつこいだけが取り得の浅ましい獣。その骨を削って作り上げた銃把。魂を捧げ、狙った相手を必ず殺す神器だろ。調べ事をしてたんだよ、無限回廊の書庫でな」
「道理で見つからないわけさね。OK,OK.今度は最初から全力で潰す!」

 言うや抜き撃ちで魔弾を放つセブンライブス。銃声は一つだが、唸りを上げて迫る魔弾は3発。再び始まるソーマの詠唱をバックに、魔女と銃使いとの決闘が開始される。

 月の光は次第にその翠の輝きを濃くする。月に向かい唄うのはもはや巫女だけではなく、信者の全て。逃げ出さずにいた見学者の中からも、詠唱に加わる者が現れる。皆一様にトランス状態。

「アムリタの効果だよ」

 教団施設の屋上に姿を現した宮坂が語りかける。あれだけ執着していた瞬間を、特等席で見ないはずがない。

「私が作った模造品だがね。貴重な本物は僅かにしか手に入らないのでな」

 蒼い光の尾を曳き、自在に宙を舞いアスキスを狙う3発の魔弾。今度は自動追尾じゃない。現れては消えるアスキスを、連携し猟犬のように狩り立てる。銃を構えたまま集中するセブンライブスの瞳が、蒼い炎を上げている。目視出来る場所からなら、自在に操れるという事か。

「アムリタを使って、無名都市中の人間を信者にでもするつもりですか!」
 高みの見物を決め込む宮坂に向かって叫ぶ。

「ふむ。拝月教は方便だ。信者になろうがなるまいがどうでも良い。私が興味があるのは、緑の月の神が持つ、精神感応・接続の力だ。群体など、生物界では極簡単な生物が形作る物ばかりだが、人間を素材に、神の力を使った群体を作れるとしたら? 興味深いとは思わんかね?」

「あなたは人間を実験材料だと!?」

 眼鏡を直して応える科学者。
「そう考えているのは神々だ。私はその手助けをしているに過ぎない」

 不思議そうな声色。僕の声に含まれる非難の色の意味が理解できないらしい。

「……狂ってる」

 今や完全に顕現を果たし、空に浮かぶ緑の月。
 その正体は、巨大な水球――おそらく、宮坂がアムリタと呼ぶ物の海。本物の満月と重なり、翠の光を降り注ぐ。まるで深い海の底から眺めるような光景。

「さあ、もうすぐだ。もうすぐ始まる」

 撃ち抜いたかと思えば、掻き消えるアスキス。風を孕んだスカートがひらめき、蒼い光の乱舞する様は、まるで黒い蝶を蛍が追うように見える。風音と金属的な唸り声を撒き散らし、目まぐるしい攻防が続く。

「逃げてるだけじゃ、あたいにゃ勝てないよ!」
「それもそうだ」

 セブンライブスの挑発に乗るように、アスキスが現れた瞬間。魔弾がその姿を捉えたかと思われたが、小さな魔方陣が唸る魔弾を食い止めている。魔女が何かを呟くと同時に、魔弾の後方に現れた使い魔が、光を失った弾丸を捕らえ喰らう。

「ワンナウト」
「なっ!? そんな短時間で解呪出来るはずが!?」

 銃使いが唖然とした声を漏らすが、攻撃の手は緩めない。アスキスが紙一重でかわした魔弾を、別の魔弾が弾き、想像もしない角度から魔女を襲う。

「ツーアウト」

 再び小さな魔方陣が食い止めた魔弾を、今度は自らの手で摘み取り、光を失ったそれをルールーに投げ与える。

「馬鹿な!?」

 理解出来ない物を見る目でセブンライブスが叫ぶ。最後の魔弾が銃使いの戸惑いを表すかのように、耳障りな唸りを上げながら、黒衣の少女の周りを飛び回る。

「その神器は、元々自分の魂を捧げて相手を殺す呪殺のための物だ。一人一殺が基本。他人の魂を奪って生きる三流魔術師あたりが回転弾層を後付したんだろうが」

 魔弾を煩げに見遣りながら、見下すように鼻を鳴らす。

「温いんだよ! どうせお前らの神の従者に成り下がって、人間辞めた奴らの魂を使ったんだろうが、同じなんだよ、魂の波動が。おかげで一発解呪出来りゃ、後は繰り返しだ」

 悔しげに歯噛みする銃使い。

「最初にあたしを狙った魔弾が、全部違う魂を込めた物だったなら、とっくにお前の勝ちだったのにな」

 哀れむように魔女が嗤う。

「Reload!」

 セブンライブスが弾層を空にすると、断末魔の悲鳴を上げた魔弾は光を失い、地に落ちた。

「Offer My Soul!」

 地面にばら撒いた空薬莢の代わりに、豊かな胸元に押し込まれていたペンダントトップ――銀の弾丸を取り出し、装填する。僅かな瞑目のあと右手だけで銃を構え、静かに狙いを定め――

「Fuck Up!!」

 叫びと共に撃ち出された弾丸は、蒼い炎を纏い、ただ真っ直ぐにアスキスの心臓を狙う。

「良いぞ銃使い! あたしを殺したかったら命懸けで来い!!」

 魔女の作り出す風の壁を、次々撃ち抜いて迫る蒼い弾丸。

「貫けえぇぇぇぇぇぇッッ!!!」

 最後の壁に浮かぶ魔方陣を突き破らんと、セブンライブスの絶叫に魔弾の咆哮がシンクロする。魔方陣がその輝きを失い、風の壁を貫いたかと思えたその時、アスキスに重なるように、翼を持つ異形がその姿を現した。

 魔弾はハスターの残骸の空洞になった胸郭に飲み込まれ、目まぐるしくその内部を駆け巡った後、闇に包まれその輝きを消した。

「スリーアウトだ」
「What the hell? 何処に消えたってのさ!?」

 セブンライブスの背後に現れた使い魔が、その足元に風の魔方陣を形作る。

「黒きハリ湖。ヒアデス星団の暗黒星さ」
「……!? Damn it!」

 ようやく使い魔に気付いた銃使いの身体を、魔方陣の中に吹き荒れる嵐が空高く舞い上げた。

「地球まで光の速さでも65年。魔法で次元を越えでもしない限り、生きてるうちにあたしの心臓まで届かないだろうな」

 地面に叩きつけられ、壊れた人形のように転がるセブンライブス。手足が変な方向に折れ曲がっている。不意討ちで追い詰められていた時ならともかく、本物の神の力を引き出すアスキスの前では、人間の作った神器程度では相手にならないって事か。でも、セブンライブスの攻略法を探してきたのなら、何故最初からハスターの力で圧倒しない? ひょっとして、殺さないよう手加減したのか?

「あははははッ! 猫でさえ9つの命を持つのに、7つじゃまるで足りやしない! 力の差を思い知ったか!? あたしが本気を出せばざっとこんなもんだ。10年早いっての!!」

 ……違うかもしれない。根に持っていただけか。

「お姉ちゃん!!」
 ソーマの悲痛な叫びが響く。

「よくもッ……!」

 目に涙を滲ませながらも、あざ笑う魔女を睨み付ける。ペンダントの燐光が激しく明滅し、その輝きでソーマを包む。

 巫女の怒りに呼応するかのように、緑の月が降下し始める。本物の月が落ちてくるような、狂った遠近感。視覚的な物だけではない。見えない無数の指が己の支配下にある者を探すような、精神を弄られる感覚。おぞましさに鳥肌が立つ。

「アスキス! あれが落ちてきたら、この場だけじゃなく、この街中の人たちが緑の月に狂わされるんじゃないの!?」
「……だろうな」

 ソーマと視線を戦わせていたアスキスも、その視線を降下し続ける緑の月に移す。

「早く何とかしないと、みんな――」
「知るか!! あたしはあたしの為に戦ってるんだ!」 

 黒衣の魔女が吐き捨てると、その苛立ちに呼応するかのように、異形の残骸が耳障りな啼き声をあげ、片方だけの翼で舞い上がる。上空で、風を纏ったハスターが緑の月と拮抗する。水球は偽足を伸ばしハスターを飲み込もうとするも、風の壁がそれを阻む。

「神様なのに、そんな残骸取り込めないのッ!? それじゃあ――」

 小さな握りこぶしを作り、悔しそうに宙を見上げていたソーマの目が、アスキスに移る。
 水球から伸ばされた偽足の一つが切り離され、落下した巨大な雫が黒衣の魔女を捕らえる。

「あはっ! わたしの神様と違って、そっちは壊れたものをあなたが使っているだけでしょう? あなた自身は所詮人間。どんなに強くても、同じになっちゃえばもう怖くない!」

 風を纏って抵抗するも、ハスターとの繋がりを阻害されるのか、次第に緑の液体に飲み込まれて行く。
 直径にして7、8mはあるだろうか。地上に落ちても歪な球を保つアムリタの中で、ついに力尽き浮かぶアスキス。口から空気の泡が漏れる。おそらく肺にまで緑の月の神の浸入を許してしまっただろう。

「アスキス!」

 助け出そうと、アムリタに手を突っ込み、何とかアスキスの手を掴むも、水球の中心に重力があるかのような奇妙な感覚に囚われ、そのままアムリタの水面に落下――取り込まれてしまう。

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