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息をするように本を読む71 〜朝倉宏景「あめつちのうた」〜

 阪神園芸という会社をご存知だろうか。日本プロ野球の球団阪神タイガースの親会社、阪神電気鉄道が100%出資をしている子会社だ。
 タイガースの本拠地、甲子園球場のグラウンド整備を一手に担っている。
 
 野球に興味のある方や阪神地域にお住まいの方々はよくご存知だと思うが、甲子園球場はプロ野球12球団のホームグラウンドのうちで3つある天然芝採用の球場のひとつだ。そして、この甲子園は全国の高校野球球児の聖地でもある。
 外野の芝生の緑と内野の黒い土が陽光に映えて美しい。青空と湧き立つ白い雲が日本一似合う球場だ、と私は思っている。
 加えて有名なのは、その驚異的な水捌けの良さ。
 
 内野の土は黒土と砂の混合土。厚みは30センチにも及ぶという。それによって吸水性と保水性をちょうどいい具合に維持している。
 夏と冬では違う種類の芝が植えられた外野の芝生は、年間を通じて美しい緑色を保つ。

 この球場の美しさとグラウンドとしての性能を支えているのが、阪神園芸のグラウンドキーパーたちの技なのだ。
 
 前置きが長くなった。
 この物語の主人公は、高校を卒業してすぐにこの阪神園芸に入社してグラウンドキーパーとして甲子園で働き始めた雨宮大地。彼の入社して最初の1年が語られる。
 東京出身で実は大のジャイアンツファン(これは内緒)の大地がなぜ、関西の球場で働くことになったのか。

 大地には、社会人野球選手だった父とその卓越した運動神経を受け継いだ弟、傑がいる。
 絵に描いたような体育会系、ザ・昭和のスポーツマン(スポーツ馬鹿、ともいう)の大地の父親はスポーツを通じてでしか、人との交流が出来ない。それは我が子に対してさえも同じ。そして大地は不幸なことに、父には全く似ず運動は絶望的に苦手だった。
 運動神経抜群の弟が父親の期待と愛情を独占しているのを見ながら、大地はずっと寂しさとやるせなさを抱えて生きてきた。
 父親に認められたい、その思いで大地は高校生のとき、野球部のマネージャーを務めた。
 大地の高校の野球部は大地たちが3年の夏、甲子園出場を果たしたが、惜しくも1回戦で敗退。そのときのひとりのグラウンドキーパーとの出逢いが大地の運命を決めた。

 甲子園の土がいかに良い土でも、それだけでは良いグラウンドにはならない。
 甲子園のグラウンドが他に類を見ないほどの水捌けの良さ、イレギュラーバウンドの少なさを誇っているのは、阪神園芸のグラウンドキーパーたちが年間を通じて、まるで我が子に対するように手塩にかけているからだ。
 
 毎試合前にはトラクターで土を数センチ掘り返し、底に沈んだ黒土を上部に浮き上がってきている軽い砂と混ぜ合わせる。
 バンカー、というブラシのついた整備車で表面を均す。ベースの脇など細かいところはトンボを使って手作業で整える。コートローラーで土を押し固める。外野の芝生、そして内野の黒土にもたっぷりと水を撒く。この撒き方もまた素晴らしい技なのだ。
 試合の合間にも、選手のスライディング、ランニング、風やその他の要因で移動した土を本来あるべき場所へトンボで移動させ、何度も均し整える。

 圧巻なのが、シーズンオフ。
 より大きなトラクターで、25センチ以上も掘り返す。天地返し、とも呼ばれるそうだ。これによって、1年で凝り固まった土を底から柔らかくほぐしていく。この作業がうまくいくかどうかで、次のシーズンのグラウンドの出来不出来が決まる。
 何度も掘り返したのちに転圧(押し固める)と整正(表面を均し整える)がひととおり終わると、今度は雨を待つ。
 雨がグラウンド全体に降り注ぎ、掘り起こされた土が奥の奥まで水分をたっぷりと含む。雨が上がると日が差し、水分が蒸発していく。土がどこまで乾いたか乾いていないか、その絶妙な加減、そこを見極めて最後の仕上げにかかるのだ。

 甲子園の、しっかりとしてしかも柔らかい土は職人たちの丹精と自然の恵みによって育てられる。

 大地は、この1年を通してグラウンドキーパーとしても人間としても成長していく。
 先輩たちの厳しくも優しい(?)指導の下、甲子園グラウンドの土のように。
 
 この小説は私がいつも聞いているラジオ番組で紹介されていた。
 阪神園芸のグラウンドキーピングの神技についてはよく聞き及んでいたので、そこを舞台にした物語に興味が湧いた。
 
 私の記事をよく読んでくださっている方々にはお分かりと思うが、私のいつもの読書の趣味とはちょっと、いや、かなり違った、爽やかな青春お仕事小説。
 
 でも、面白かった。
 いつも、渋いほうじ茶や炭焼きコーヒー、苦味の勝ったビール(飲めないけど)みたいな本ばかり読んでいるが、たまにはこんなサイダーのような爽やかな小説もいいもんだな、と思った。

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 阪神園芸の中でも甲子園のキーパーは花形で、おいそれとはなれるものではないそうだ。
 通常は他の部署で何年か修行を積んだ後にようやく甲子園に立てるらしく、1年目に、などということはないと聞く。まあ、そこはフィクションということで。

 夏の全国高校野球大会が一昨日から始まった。
 全国から地方大会を勝ち抜いてきた球児たちが頂点を目指して戦う。

 甲子園には魔物が棲む、ということを聞かれたことがおありだろうか。
 試合中のふとした気の緩みは怖い。絶対的優勢にそれと自覚はなくても少しでも油断をすると、突然魔が差したようにエラー、凡ミスが続き、あっという間に大量得点を取られて形勢が逆転してしまうことはままある。
 その恐ろしさを、魔物に喩える。

 今年は、その魔物に祈らずにいられない。
 全ての選手が、どうか無事に最後まで悔いのないように戦えますように。
 この困難な状況の下でさまざまな苦難を乗り越え、この聖地までたどり着いた若者たちを、どうぞ守ってやって欲しい、と。

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 いつもお読みいただき、ありがとうございます。
 来週はお盆休みをいただき、再来週の8/22に次の記事を投稿します。
 皆様の記事は読ませていただきますので、コメントなどでお邪魔するかも、しれません。
 今年の夏は、殊更に暑さ厳しいようです。
 皆様、どうぞご自愛くださいませ。

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