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かつて大人だった子どもたちへ

僕は小さい頃、長い間神様の存在を信じていた。

いつ、どのようなきっかけでそうなったかははっきり思い出せない。ただ、後ろに「様」を付けないと気がすまないというか、自分が罪を犯したような悪い気分になるくらいには、神経質で変に信心深かったのは確かだ(当時は「神」という一文字で呼ぶことすら傲慢だと思い、文字をイメージしただけで心の中で懺悔し、許しを乞うこともあった)。神様が僕を見張っていて、悪いことをすればきっと最期は地獄に堕とされる、そんな気がしたのだ。だから僕は常に「いい子」であろうとした。少しでも自分の「いい子」から外れた行為や言動をした後、必ずきまって、心の中で「神様、ごめんなさい」と気が済むまで唱えた。そうすると、僕の中に燻る罪悪感が晴れるような気分になった。

考えてみれば、自分の罪の意識を軽くするための手段として、神様に祈るというのは、ずるいというか、随分都合が良すぎるというものである。もし嘘をついたとしても、嘘を正当化するため、つまり嘘をついた事実は変わらないのに謝罪せず、ただひたすら神様に祈りと懺悔を繰り返せば許されるという理屈も成り立つ。それこそ神への最大の侮辱ではないだろうか。しかし、小さな僕にそんな思考回路はなく、ただ、神様にお祈りすれば大丈夫、と悪びれなく暢気に考えていた。実際のところ、僕は嘘つきで狡猾だった。僕の信仰心は歪んでいた。

明らかに、あの頃の僕はどこかおかしかった。だってそうだろう。敬虔なクリスチャンでもムスリムでもない、それどころか宗教という概念すら持たない幼少の僕が、どうして「神」を信じることなどできようか。神はいない。神は既に死んでいる。にもかかわらず、子どもの僕は神様はいると本気で確信していたのだ。
ソレは、言うなれば脳内に突如発生したバグだった。永遠不滅、絶対の存在という概念をもたらすバグ。僕の心に呵責と刑罰を与えるソレを、幼年期の成長の足枷であることに気づかずに、僕は盲信した。それを神様であると僕は勝手に思い込んだ。
一体、僕はどうなってしまったのか。確かに覚えているのは、幼少期以後、外国に移り住むようなって、ある出会いと別れを境に、僕の心からソレが忽然と消え失せたことくらいだ。

30年ほど前の、昔のことだった。

まだ僕が幼稚園を出たばかりの時期、外資系商社のサラリーマンだった父の転勤により、僕は母と兄姉ともに連れられ、日本の千葉からアメリカのカリフォルニア州へと引越すことになった。アメリカが中東で戦争を始め、永年に続くと思われた米ソ冷戦が終わり、ソヴィエト連邦が崩壊、ユーゴスラヴィアで泥沼の紛争が始まったのと同じ年に、日本の地を離れた。僕らは国境を跨いだが、世界からはいくつもの国境線が消えようとしていた。

カリフォルニア州南部、ロサンゼルスの郊外に僕らの家があった。戦争で大忙しの国とは思えないほど、街は静閑で平穏な空気に包まれていた。

アメリカでの生活ははじめこそ戸惑うことばかりで、現地で入学した学校(elementary school)にも馴染めずトラブルも起きた。通学後1ヶ月は毎日憂鬱な気分で朝送りの車に乗り、迎えが来るまで、授業の時間が早く過ぎ去ってくれないかとばかり考えていた。日本に帰りたいと、夜寝床につく度に強く願った。しかし、3ヶ月も経つと次第に言葉や習慣に順応し、学校での友達ができてからは、楽しい日々が続くようになった。1年も経つと、故国での暮らしに想いを馳せることはもはやなくなっていた。

小学2年の新学期を迎えて間もないある日のこと、僕は生まれて初めて好きな子ができた。名前はアンナ。同じ学校の生徒で、歳は僕より一つ年上、隣街地区に住んでいた。皆からアニーという愛称で呼ばれていた。
それは僕の一方的な恋、つまり片思いで、一目惚れだった。彼女との出会いは、たまたま学校でのランチで相席になり、彼女がランチボックスからスプーンを落として地面に屈んだ拍子に横顔を覗いた時だ(学校では、ランチを屋外スペースのベンチに座って食べることになっている)。小さな花の飾りがついた髪留めで長いブロンドの前髪が斜めにまとまり、透けるように白い肌、綺麗に横に流れる茶色の眉、くっきりとした二重瞼と淡く碧い瞳の色、細く顔の中心に高い鼻梁、桜色の薄い唇、その造形美に固唾をのんだ。僕より遥かに大人びた顔立ち、それでいながら幼さとあどけなさを残している。
彼女が僕の視線に気づき、振り向き様に目があった。スプーンを落としたことにバツの悪さを感じたのか、一瞬、動揺の色を見せたかと思うと悪戯っぽく、片目をパチリとつむりウインクをした。見なかったことにして、というサインだった。替えのスプーンを取りに行ったのだろう。彼女はそそくさと席を離れて姿が見えなくなった。
僕は惚けたようにしばらく視線が宙をさ迷い、ランチボックス内のホットドックが冷めるまで手がつかず、無言で今起きた出来事を頭の中で反芻していた。それまでの人生で、それはおそらく最も美しく混沌とした数分間だった。

それからの日々、平日の学校ではほぼ毎日ランチの時間に彼女の姿を探しては相席を陣取ることに必死だった。たまに彼女が友達とおしゃべりしながら食事をする日以外は、常に僕が彼女の前か横に座った。愛想をつかすどころか、何かがおかしかったらしく、僕の姿が目の前に現れるなり、いつも目を細めて笑ってくれていた。
僕の顔に何か付いてるの?と、ふと英語で素朴に疑問を投げかけた時、「だって、あなたエスパーなの?っていうくらい毎回私が座ろうとしている席の近くにいるんだもん」と返してくれた。
「なんか変なの」と、悪意なく楽しそうに笑っている顔も綺麗で、僕は彼女をますます好きになった。
「変ではないよ。あなたがいつも混み合う中央側のベンチを避けて、日陰のある南側の端の方を選んでいるのを目で追ってたから」手品でも超能力でもないことを説明する。
「でも私を常にマークしてるわけでしょ?それっておかしなことじゃない?」と、まるで猫がじゃれるように問いかける。「どうして私なの?」
「どうしてって‥」少し顔が熱くなり、困り果てていると、「私のランチがおいしそうだから?」と、予想外の展開に話を振ってくる。
「えっと。そう、おいしそう、だよね。サンドウィッチの具が凝っててさ。いつも何食べてるのかな、って中身が気になってたんだ!」うまく誤魔化せたかは分からないが、ゴリ押しで間を持たせる。「だから、できたらランチの中身をちょっとだけ交換とかしてみたいなって、思ってた」
冗談で言ったつもりだったのか、まさかねだられるとは予想してなかったようで、彼女は大きな青い目を見開き、驚いた表情だった。が、それも束の間、すぐに涼しい笑顔で「いいよ。あなたのランチボックスの中身にも興味あるわ」と言ってくれた。

彼女と仲良くしてからの日々は、僕の過去でもっとも輝かしい思い出になった。アニーは僕が知らないことをいろいろ教えてくれた。たとえば、通学している現地校について。僕たちが通っている学校は、移民や駐在者の子も多く、日系人、華僑、ヒスパニック、欧州出身の子など、様々な国籍やバックグラウンドを持っていた。授業での教科と会話は当然英語に統一されているが、休み時間や放課後には、自国の言葉でお喋りする子どもが多かった。自然、出身が同じ国同士の友達付き合いの方が割合が高くなる。アニー自身も、イタリアとロシア(当時はソヴィエト)のハーフで、生まれはウクライナだと言っていた。彼女は3つになる時、家族とアメリカに移民としてやってきて、国籍もアメリカに変更していた。ちなみに、彼女の親戚に日本人の叔母がいて、幼少期にアニーの面倒を見てもらっていたおかげで、ロシア語、イタリア語、英語に次いで、日本語も日常会話レベルで話すことができた。なので、アニーと二人で話す時は、日英混淆のクレオールになる。
「本当は、国に戻りたい気持ちもあるの」少し遠い目をしながら、彼女は打ち明ける。
「でも、どうしても帰国できない事情があって、たぶん、このまま一生ここで暮らすんじゃないかな」
「そうなんだ」どうして帰れないのか、僕は深く追及しなかった。その話をした時だけ、彼女の翡翠色の目にはどこか翳りがあり、これ以上続けるのは彼女を追い詰めるような気がした。
「でも、アニーがずっといてくれるんだったら、僕も日本に帰りたくないな。ここにいたい」と、つとめて明るく振る舞う。
「ありがとう」いつもの天使のような笑顔で、礼を述べるアニー。「神様(Lord God)にあなたとの出会いに感謝の祈りを捧げないとね」
「Lord God って何?」彼女の口から出た言葉の意味を、その時はよく知らず、素の質問で返した。
「ああ、マシュー(僕の名前は真白、愛称でマシュー)はまだ子どもだから、知らないのね」ふふっと、揶揄うように口元を緩ませ、はぐらかす。
「えー、なにその言い方」
「大人になればいずれ分かるよ」
「大人って、僕と一歳しか違わないじゃん」
「マシューは考え方がまだまだ幼稚」
「アニーだって、この間僕がバックパックにつけてる熊のぬいぐるみのキーホルダーがかわいい、ほしい、ってせがんでたよね」
「そんな時代もあったわね(目を逸らす)」
「いや、僕たち先週出会ったばかりだよね‥」
わずか1週間でそんな軽口をやり合うくらいに、僕も緊張せずアニーと話せるように進展したのだから、子どもの無鉄砲ぶりは計り知れない。

後で両親に聞いて、彼女が呟いた言葉の意味を知った。しかし、元々住んでいた文化圏が異なり、キリスト教への理解が乏しい僕は、彼女の言う神が僕の想像するソレとは別物であることの理解には及ばなかった。つまり、神様へ感謝を捧げることも畏れ多いと感じ、代わりに僕が悪い子ではないことの証として、寝る前にひたすら懺悔をするばかりだった。

彼女の言う通り、僕に比べればアニーはずっと大人だった。仕草や言動、授業の態度、服装から小物に至るまで、早く子どもを卒業して大人の仲間に加わりたいという彼女の意思を物語っていた(さすがに化粧やピアスはしてなかったけど)。それでいて、あまりオマセな格好は小学生に相応しくないとして、教師から注意されるギリギリのラインをはみ出さないよう、意識していたようだ。アニーに憧れ、教師から叱られることを顧みず、真似をする女子は僕と同学年のクラスにもたくさんいたが、どれも全くもって様になっていなかった。アニーには、彼女だけが持つ独特のセンスがあった。僕ももちろん、アニーと肩を並べても笑われないよう努力したつもりだが、端から見たらきっと提灯に釣鐘の状態に思えたことだろう。

僕が移住してから3年の月日が経とうとしていた夏の終わりの日の午後、お互いの家から中間の位置にあるパークでバスケットボールをしていた時、アニーが1on1を中断して話しかけてきた。
「ねえ、マシュー」
「なに」
「突然こんな話をするのも変かもしれないけど」
「前に、Lord God の話をしたじゃない?」
「ああ、神様のこと」
「カミサマ?日本語でそう言うの?」
「うん‥」微かに控えめな声で、僕は頷く。
「そっか。うん、それでカミサマのことだけど、私、本当はカミサマはいないんじゃないかって思うの」
「えっ‥」だめだよ、そんなこと言ったら、と言おうとして、あまりの衝撃で二の句が継げなかった。
「変に誤解してほしくないんだけどね。うーん、うまく言えないけど、どこかずっと前からそんな気がしてて、やっぱり。信じる信じないとか、そういんじゃなくて、いてほしいと願っても、心の何処かではいるはずがないって、否定してしまうの」
「どうして」
「わからない‥。わからないけど、カミサマがいてもいいことはないかもって、最近思うの」
「アニーは、謝らないの?」
「え?」
「神様のこと、そんな風に言ったらだめだよ、ちゃんと、謝らないと」声が、涸れてうまく伝えられない。
「どうして?どうして、私が謝らなくちゃいけないの」氷に触れたかのように、アニーの白い顔の表情が冷めていく。
「謝るのはむしろGod の方よ!私は何も悪いことをしていないのに、酷い仕打ちを受けている」
「アニー、どうしたの?どうしてそんな急に怒った顔をしているの」汗が背中をつたい、身震いがした。
「もし、もしいるはずなら、もう少しだけ時間をくれたっていいじゃない‥。God damn」
「え、アニー、どういうこと?時間って、いったい何のことなの?最後に何て言ったの?」
「なんでもないの。ごめん、マシュー」
たぶん、汗じゃなかったと思う。アニーは、仄かに朱色がさした自分の頬をつたうものにはっとして、一目散にその場から駆け足で離れ去った。余りに唐突の出来事に呆然とし、出遅れた僕の足では、アニーの長い脚の俊足に敵うわけなく、姿を追うことを途中で諦めた。パークにバスケットボールを置き忘れたまま、彼女を捜索するため、街中を歩き回ったが、見つからなかった。夕方に彼女の家を訪ねたが、アニーの母親が言うには、まだ帰ってきていないとのことだった。

結局、その日は夜の帳が落ちる前まで彼女を探したが、見つからず帰路に戻った。

あの日を最後に、彼女の顔を見ることはなかった。

夏が終わり、新学年からのクラス替えで新しい友達ができる頃、僕は彼女との出会いがまるで夢のように思い出せなくなりかけた秋の季節に、全校集会で元アニーのクラスの担当だった女性教師の口から、彼女の名前を耳にした。
アンナ・ニヴラツカヤ(アニーの本名だ)が、夏の暮れから大きな病院に入院するようになったこと、彼女が辛い病に冒されていること(その時は病名を聞き取れなかった)、しばらく学校には来れないことを告げていた。彼女が無事に戻って来れるよう、神に祈りを捧げましょう、という言葉で締めくくられる。少し会場が騒ついたようだったが、次の話題に移る辺りで、また直ぐに静かになった。

僕は、あの時真夏のパークで彼女が涙を流して叫んだ姿を鮮明に思い出す。
どうして、彼女があんなにも早く大人になりたがろうとしていたのか、どうして神様にバチが当たるような暴言を吐いたのか、どうして、僕の前から去っていったのか。
その意味がチェーンのように絡み、繋がって、ようやく僕は理解した。彼女は、僕にさよならを言いたくなかったのだ。さよならを言えば、永遠に会うことは叶わなくなる、そんな気がしたのではないか。だから、僕とのいつかの再会のために、わざとあの日は逃げまわっていたのではないか。僕にさよならを言ってもらいたくないから、重い病を患っていることを隠し、入院する事実を悟られないようにしていた。時間を与えてくれないなら、神様はいないのも同然である。神は奇跡を起こさない。病は平等に人を蝕んでいく。
時間がないなら、早く大人になればいいという、アニーの運命に抗う健気さと気高さを思い、僕は自分のことしか考えていなかったことを悔やんだ。今更悔やんでも、誰に祈っても、願いは届かない。

アニーの身体は大人になることはなく、その冬、年を越せずに逝った。
僕は彼女に合わせる顔がなく、見舞いはできなかったから、死に顔を拝めていない。彼女の訃報は、僕のクラスの担当教師から年明けの2月に聞かされた。死因は、AIDS(エイズ)による敗血症だと説明されたようだが、小学4年生の僕の頭に医学用語を理解できるはずもなく、ただ、エイズという単語がやたらとクラス内で飛び交っていたのは覚えている。
エイズ、汚らわしい病、エッチなことをしたら感染る黴菌、とかしましく風評や偏見を口にする子どもたち。楽しそうに囃し立てる彼らは、純粋な遊び心からそうしているだけで、そこに何の悪意も感じていない。
僕は、彼らに恨みはなかった。ただ、やるせない憎しみと怒りは消えてくれない。
沸騰して、真っ白になった頭は、その瞬間ショートする。記憶にはないのだが、僕はその後クラスで大暴れし、椅子や机をむちゃくちゃに薙ぎ倒した上で、アニーを貶した男子の一人に躊躇なく顔面を膝蹴りし鼻が骨折する怪我を負わせたということだ。教師に取り押さえられた僕は、罰として1週間、放課後に学校全てのトイレ掃除を命じられた。

神様は、僕が悪い子でも良い子でも関係なく、僕からアニーを奪っていった。僕に残されたのは、糞尿と便所書き(Fuck'n Shitと書いてあった)、ゴミの詰まって水が溢れかえった便器と、大人がいなくなった子どもの群れだけだった。もし、僕(ぼく)が本当に神の僕(しもべ)であるなら、凡ゆる不幸や罰も試練であると考え、それに従うべきなのかもしれない。でも、ぼくは神を許すことはできなかった。断罪するべきは神であり、ぼくの側にいるべきなのは、ぼくの心を占めるのは、ぼくの居場所は、アニーだけのはずだ。そしてぼくは、僕を一番憎んでいた。ぼくはもう、僕であってはならない。ぼくが助けることができなかった人、最期に好きだと伝えたかったアニーは、きっと僕を愛してはくれない。

ぼくは、さよならの本当の意味を知らない子どもで、大人ではなかった。

僕(ぼく)の神への畏敬の念は、とうに消えていた。懺悔のことも忘れていた。ソレは脳内に巣食くう悪性の腫瘍だったが、手を施さずとも自然治癒する病でしかなかった。

小学4年になって半年が経った頃、春に僕は日本へ帰国することになった。僕はアニーを喪い、神を見捨てた。僕は、アニーが目指していた大人になれたのか、未だによく分からない。暫くして、東京の中高一貫の私立女子中学校に通う頃になって、彼女の病に纏わる忌まわしい現実を知ることになった。
1986年、彼女の祖国、ウクライナのチェルノブイリでの原発事故。アニーは、おそらく幼少期に放射線被曝を受けたことで、エイズを発症した。既に僕と出会った年には発病してた可能性もある。偶然かもしれないが、僕が小学生になって直ぐの時期に彼女を見かけたことは一度もなかった気がするし、小学2年の時点の出会いで彼女があまり広く交流関係を持たないことに違和感があったのは、彼女が入院生活を何度か繰り返していたせいなのかもしれない。
アニーは、きっと何度も神に祈り、同じくらいの回数呪ったのではないか。この世にもあの世にも神はいない。彼岸此岸。He's gone, She's gone.僕の神は去り、彼女は永遠に。世界史の教科書の現代史を記した1ページに、僕はそんな落書きを添えていた。

僕の中に、わたしはいる。わたしは、彼女であり、僕は彼女とともにいる。

高校入学を控えたある日、ロシア語表記のエアメールでわたし宛の封筒が届いた。発信元は不明。わたしの名前の部分だけがローマ字綴りになっている。
封を開けてみると、そこにはかつての彼女が欠かさずつけていたものと、よく似た髪留めが入っていた。それ以外に手紙らしきものはなかった。
「こんなの」封筒を、くしゃりと握りしめて、こらえられずに嗚咽が漏れた。
「あなた以外の誰が似合うって言うのよ」

あの髪留めを、女子高校生の時から今に至るまで、一度たりとも前髪から外したことはない。もしもの仮定や並行世界の存在が許されるとして、大人に成長したアニーが今も生きているとすれば、彼女の美しい金色の前髪の同じ位置に、髪留めをつけている気がした。髪留めを外さない限り、この宇宙のどこかで、アニーは存在し続ける。僕から離れてわたしとなった私を、彼女ならきっと見つけてくれる。宇宙の彼方にきっと神様はいないけれど、あなたはいてくれると今でも信じていられる。

最期の日まで、わたしはあなたの輝きを忘れない。

さよならを言えなくても、わたしは大人になってみせる。

《1991年の出来事》
1月 湾岸戦争勃発
6月 スロベニア十日間戦争(のちのユーゴスラヴィア紛争のはじまり)
9月 Nirvana『Nevermind』リリース
11月 My Bloody Valentine『Loveless』リリース
12月 ソヴィエト連邦崩壊

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