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満月の詩

父のことを話すときの自分を感じると、やっぱり涙が出るなあとつくづく思う。あまりにも昔と変わらなくてウケる。

今も正直、涙のその仕組みはよくわかっていない。だからそのままに感じることしかできない。
鼻がつまって上手く話せない息苦しさを。
努めていつものように話そうとしているのに、声が震える自分を。

今日も感じながら話していた。悲しいのかどうかわからないなあと毎回思う。悲しいとは少し違うような気がしてる。恐怖の涙のような気もする。それとも脊髄反射だろうか。そんなしょうもない思考が巡るくらいに。
それでも、浮かぶ言葉をつらつらと話していると、身体的に怒りが父にだけでなく、母と妹にも怒ってることが初めて明確に感じられた。
おお我ながらそうだったのか…と話しながらも少し驚いていた。

表層では触れられない感情と思考が顔を出してくれたような気持ちだ。
それは、決して贔屓目でなく、卑屈に仲間外れを拗ねている感じではなかった。いちばん辛いときに、いちばんそばにいたのに、見ていただろうに、私の痛みをないことにする人たち。
ある程度はしょうがないと言う対応の人たちへの純粋な怒り。小さな子どもを殴って蹴る男の行為に疑問を持たない愚鈍さと同質化を憎んでるんだなあ。しょうがない。それが今のわたしだ。

私はわたしのために泣く必要がある。いや、泣かなければならない。
「うるさい」と怒りにまみれた大人の男、本来はこの世で誰よりも信頼し、大好きな存在になったかもしれない、この世界で親と呼ばれる男に殴られ、蹴られ、恐怖で呼吸を忘れ、感じることを忘れてこの心を守った幼い私のために。
残念なことに母も妹も一緒に泣くことはどうにもないようだ。それでも構わない。あのときの私を庇い、思い、共に涙する人は家族の中にはいないことはとうの昔に気づいてる。それを嘆く時代はすでに過ぎ去った。ならば私くらい共に泣いてやらないと可哀想ではないか、わたしよ。
そんな言葉が浮かぶくらいに、今日は何かにわたしは手を突っ込んだ。じぶんの内側の大地の穴に深く、深く。何も考えないままに。
ああ、まだこんなじぶんがちゃんといたんだな。久しぶり、わたしよ。

それでも流れる涙をそのままに、言葉をつむぐ。紡ぎ出される言葉をじぶんの耳で受け止める。へえ、こんなこと思ってたのか。そして溢れる涙の粒と粒。なんだこれは。まじでなに。その先によろよろと手を伸ばす。どこから湧くの? この水は。
意識を向けた先は、眩しい金色しか見えなかった。でも私はすぐにわかった。
ああ、わたしのつくっている幻想の世界だ。

もはや腫れ物に触るようにしか同じ空間にいられない、そこしか気のあうところはない父娘。わたしの身体は、見えない空間に鮮やかな痛みを刻み、どれだけ細胞が生まれ変わってもその記憶は再生され続ける。その臨場感を、気が許せば瞬時に再現可能な私はいつだってすでに死んだゾンビのように生き生きと生きていけるくらい、最高に優秀だ。

私は自分がゾンビだと認識することができたのは、10年近くこの涙を流すことを許してくれた大人がいたからだ。
私と同じ血を持つ部族は、家族ではないところにいた。たくさんいた。彼らがわたしを生かしてくれた。
私はじぶんがゾンビだと認識する過程の中で、初めて世界を違う角度で眺めるスキルを手にした。それは、過去であること。いま、ではないこと。
その事実がかろうじてここまで私を生かしてきたのだ。いや、生かされてきたのだろう。
そして父も老いたこと。もう歩くのも厳しいこと。80歳を超えていること。もうすぐ訪れるであろう死という現実の予測。それを認め、ぼんやりと見つめることがかろうじてできるようになっていること。今でも彼の年齢に興味がないので正確な年を知らないままでいる自分のことも。

衝動的な怒りを抑えられず、幼い娘に手を上げることを許すぐらいの非成熟さを持ちながら、信心深く、木彫りの観音像に毎朝手を合わす。育ての母親を大切にする。妻の父親を大切に扱う心。家族のために身を粉にして働くことをした。人生を賭けて、彼は家族の経済的な苦労を一切排除した。
そしておそらく。
家族を、とても愛しているのだろう。おそらく、その幸せを強く、強く、願っているのだろう。それは彼の中にどんなときもきっと息づいているのだろう。
そんな夢を、私は見ている。
そして、同じように、私にも彼が幸福であるようにと強く光のように強く願う部分があることを認める。

世界に生まれ落ちてから備わった怒りと、生まれる前から持ち込んできた本来のわたしがもっている願いという名の祈り。
この二つが混じり合い、ぐるぐると追いかけっこをしている。壮大な宇宙のささやかな渦。
それが父について話すときのわたしの目から溢れて止まらない水の正体なのである。
困ったものだ。
その全ての粒の動きは完璧だ。何ひとつ直すところはなく、変える必要もない。そう、完璧なのだ。困ったものだ。
そう、まるで厚く覆われた雲の隙間に、一瞬だけ現れた白い月のように。

白く光を放つ月にごめんと謝るのはおかしい。ありがとうも変だ。
いつもは雲の海原の上でこうこうと輝いているだけであろう月。ときにこうやって気まぐれにその姿を現し、そしてまた隠れるであろう月。
その存在を忘れ、見失い、大地の上で、のたうちまわって、ごうごうと泣くことをしている私の前に、予測不能で現れてはまた見えなくなる月よ。

きょう、思わぬタイミングで見上げ、その光を私は見た。怒りだけでも祈りだけでもない、どちらも内包したひとつの光。
こんなものを持って私は生きているのか。そりゃたいへんだよな。社会をやってる場合じゃない。
なのに、ここまで生き延びてきたとは奇跡のようである。しかも社会もやりながら。すごいな私。君は奇跡のかたまりだ。
この光を見る機会を、時空間をつくってくれる人たちが遠くだけれど近くにいて、それがわたしを生かしているのだが、もはや生かされているとしか言いようがない。
この事実を前に、私の意思なんて塵のようでしかないではないか。もう降参するしかない。
どうやら今日は満月だったらしい。やっぱり降参するしかない。

ありがとうもごめんも言わなくていい。ただ時々空を見上げて、ごうごうと泣いて、ゲラゲラと笑い、毒づき、ときにのたうちまわり、無様に、ときに強がり、ときに後悔して涙を流し、こころを感じて。そうやって止まるまで生きるのだ。


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