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心を癒すって、技術だ。

誰だって痛みは嫌いだ。
傷があれば治したい。
それは心でも同じ。

でも、心の痛みを癒すのは、指の切り傷ほど簡単にいかないことも多い。
時間は薬と言うけれど、人は結構昔の痛みを抱えたまま生きている。

はじめての彼に言われた「お前っておおざっぱだよな」という言葉が
こころの片隅に刺さったままだったり
いつも疲れていた母親の姿が
思いだすたびに心苦しさとなってふわっと顔を出してきたり。

失恋の痛みだって、
仕事の失敗の痛みだって、
数日、こころのなかでジクジクと痛んでいたりするかもしれない。

「心が癒された」というのって、
日常の中で起きるのは実はまれで、
「運」みたいなもの。

たまたま、いい出会いがあった、
たまたま、友達がぽろっと良い指摘をしてくれた、
たまたま、きっかけがあって、わだかまりをほどくことができた、とか。

愚痴ったり、友達に聞いてもらって「発散」するのは、
癒しとは違う。
ガス抜きではあるけど、痛みは消えたわけではない。
友達と離れてから、また思い出すと痛みだすのは、
傷はまだそこにあって、そのまま、変わっていないから。

こころを癒すってことは、技術が必要だと思っている。
能動的に、自分の力で、こころのなかにある痛みに触れることは、
そしてそれを「癒す」のは、
こころの扱い方のことを知っていたり
こころと向き合うときの視点の持ち方を知っていたりというのがないと、
「癒す」ところまでってなかなか行きつけない。

「癒された」というのは、
ぐちゅぐちゅしていた傷だったのが痛みが引いた、
かさぶたになった。みたいな「状態」の変化があること。

そこにはなにか、消化しきった感覚がある。

こころに何かが刺さったとき、
大きな切り傷ができたとき、
「まだ痛い」がいつまでも続いてしまうのは、
なかなか、その「痛み」の思い出から出られないから。

その時の見方、感じ方を変えられないから。
同じ視点から、同じ出来事を見るから、何度も同じ感じ方(痛み)を繰り返す。

「あの人は、わたしを捨てたんだ」という思いは変わることなく、
「あの人に捨てられた痛み」のまま、なんども捨てられた痛みがよみがえる。

こころの癒し、にプロの助けがあるととても楽なのは、
その「あのときの視点」「あの時の感覚」から、
出られるようにサポートしてもらえるから。

その時の自分の痛みを、「あの頃の自分」ではなく、
「今の自分」が見つめなおしてあげられるようにサポートしてもらえるから。

その方法を、教えてもらえるから。

癒すというのは
「原因(傷そのもの)」に対処する
傷の状態を変えること

そのために違う視点に出ること

だから、わたしは「こころの扱い方」を、
いろんな人が学べたらいいなって思っている。
ただの技術だから、知って、やってみたらできるようになる。

自分のこころが「どうしようもないもの」ではなくなると、
自分のこころに翻弄されなくてよくなる。

人生の選択の多くは自分のこころに影響されるから、
こころに翻弄されなくてよくなると、
自分の本当に望むものを選べるようになる。
つまり、自由になる。

私は、こころの扱い方を知ることは
自由を手にすることだ、と思っている。
自分の人生を自分の手でつくりだすための、とても便利なツールなのだ。

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