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無人の場所を志向する身体

今回のnoteでは、今年の1月頃のアート制作において考えていたことをまとめてみます。

目次
1.はじめに
2.過去の経験や記憶に紐付けない知覚に存在する静けさ
3.自分を空虚、不在にするレシピエント(受容するもの)としての静けさ
4.現象学:静けさは同時に他者に開かれる
5.見るものと見られるものはお互いの地図を作る
6.因果関係のカオスに埋められた痕跡
7.浮遊する痕跡:ものを因果関係から解き放つ            
8.痕跡の残らない場所:砂漠
9.痕跡(因果関係)を知覚する者がいない場所:氷河


要約すると、この記事では、過去の経験や記憶に紐付けない知覚(ボトムアップ知覚)が持つ可能性と、ヒトの意識の介在しないもの(非相関的な事物)自体について想像することの身体感覚としての<遠さ>と<静けさ>を、自分のアート作品やプロセス、それらの参考資料を通して考察します。

はじめに

私は理由や因果関係でありふれた賑やかな世界の中で、制作を通して静けさを感じ、作品を通して鑑賞者に静かな知覚体験を生み出したいと考えている。

 では私の考える「静けさ」とは何か?
静けさというのは抽象的な言葉なので、これを様々な角度から客観的に位置付けたい。それは認知科学的に言えばボトムアップ処理的な知覚(知識や経験等にたよらないで物事を個別具体的に見ようとする情報処理)をしている時に得られる感覚であり、思弁的実在論(メイヤスー)の言葉を借りると、相関関係の世界の外側にある<無人のものへの思弁>という感覚にとても近い。また、静けさというのは一見他者や情報を遠ざけて閉じる方向性に思えるが、そうではない。静けさを感じながらむしろ他者に開いていきたいという矛盾について考えるとき、メルロ=ポンティの感覚的で開かれた世界の持つ場と土壌としての身体という考え方が突破口となった。

 ではなぜ「静けさ」を重要だと思い、制作全体に反映させているのか?
もちろんそれが個人的にこの世界に希求するものであることを前提として、それが既成概念に可変性を見出し、日常の行き詰まりの突破口となり、異なる価値観、宗教を持つ人々が共存し対話していくために必要な思考であると考えるからだ。さらには、最近の思索の(特にブルーのラトゥールを参照する)中で、今の時代(人新世)において地球環境を考えていく上で必要な世界の捉え方であるのではないかという考えに至りつつあつ。

過去の経験や記憶に紐付けない知覚(ボトムアップ知覚)が

まず、私自身の作品の特徴として、何か意図を持ってそれを効果的に表現するためにものを使うというよりは、まず意図を挟まずに対象を観察し、そこから立ち現れるもの自体の言語を身体を通して作品にしてきた。

例えば下の作品は、デスクの上の痕跡を観察し、それをトレースしていくようにキャンバス上に刺繍を行っている。作者としてどんな素材を用いるかという判断を行うが、制作中の私の意識状態としては、このように表現したい、こんな雰囲気にしたいというような意図性は極限まで用いていない。ただ淡々とまるで自分がもの(恣意的な判断を行わない存在)になったかのように、もしくは自分自身が痕跡と一体になったかのように刺繍を行う。

以下の作品では直接紙に線をかく手法を用いて、同じような意識状態で行った。

このような対象の見方は、認知科学で言われるところのボトムアップ処理(data driven processing)に似ている。私たちは通常過去の経験や記憶を知覚に紐づけている。これはトップダウン的な情報処理(conceptually driven processing)を行っている。目の前のペットボトルをそれとして見るのは過去の経験から名前を知っているからであり、それらの記憶によって見えにくいものを推測したり、見えない部分を補ったりすることができる。一方で私たちの知覚は意識によって制限されている。(例えばりんご =赤という意識が強いため、リンゴの微細な色や形を観察しない。ということが起こる。)一方でボトムアップ知覚においては、過去の経験や記憶を通して判断しないものの見方であり、ものそのものを見ようとする知覚方法である。それは赤ちゃんが見るような世界であり、瞑想をしている時の状態にも似ている。

私がデスクの痕跡をボトムアップ的に眺めるとき、それがデスクの汚れであるという意味から解き放たれ、そのもの自体の魅力が立ち上がる。さらに、それらのなかには元々名前もなく、その中でのヒエラルキーもない。そういう意味で過去の経験や記憶に基づく意識が発動しにく、それえを観察する中でボトムアップ知覚が保たれやすい。

ボトムアップ知覚で世界を見る時、社会的な価値のヒエラルキーは一旦無視することができる。極端な例だがそれは宇宙人的なものの見方と言えるかもしれない。地球の文脈を全く知らない宇宙人がいたと仮定し、地球にやって来て私たちの生活を見た時、同じようなことが起こるかもしれない。彼らにとって紙幣や宝石は紙屑や石ころと同じひとつのオブジェクトとなるだろう。

自分を不在にする、レシピエント(受容するもの)としての静けさ

ではこのような自分の意識を介在させない対象との関わり方は、現代アートや哲学の文脈の中でどのように位置付けられるだろうか。

例えばそれはメキシコ出身のアーティストであるガブリエル=オロスコのアーティストとしてのあり方に共通点を見出すことができる。彼について、長谷川裕子氏は以下のように記述している。

彼は、自分を空虚、不在にしてレシピエント(受容するもの)としての彫刻のボディに化身して観客に提示すると語る。そのvoid(無)となった自身は西洋的な主体概念の消失を意味する。つまりオロスコの作品に関していわゆる作家のコンセプト、作品に込められた内示を分析することは意味がない。作品はその存在の中に観客が投影するあるいは感受する意味や感覚によって成立するからである。この実践の方法論は、ジョンケージ らによってすでに1960年代に提唱されたものである。しかし、これを彫刻や絵画、写真と言った強い形式で表したこと、その鮮やかでパラドキシカルな物質化がなされたこと、おそらくそれがオロスコの登場が最も強い形で1990年代の欧米のアートの文脈に衝撃(あるいは突風)を与えたものと言えるだろう。(ガブリエル=オロスコ)

オロスコはアーティストとして時に対象に介在するが、それは彼の意図を表現するためではなく、対象を異化するとこでその対象自身の持つ潜在性を鑑賞者にawarenenn(意識)するためである。


私自身も、制作対象を見つける時間、制作中の時間の2点において自分を不在にするという感覚がある。その二つの時間の間には、「素材と手法を判断する」という意識を挟むが、それは自分が何を表現したいかというよりは、対象の可能性を引き出すため、もしくは鑑賞者がその対象をボトムアップ的に見つめ直すために効果的な素材を判断し選んでいる。

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Stains,2019

そういう意味で私のボトムアップ知覚を用いた制作表現は、自分を不在にしてレシピエント(受容するもの)として彫刻のボディに化身するオロスコのスタンスと共通するものがあると言えるだろう。 

自分を無にするというのは、道教や仏教など東洋的な思想から考えると自然なことだ。ロンドンでアートを始めた時、自分を不在にする対象との関わりをそのまま作品にすることは、日本出身の私にとっては自然なことだった。一方で次に述べる現象学や思弁的実在論など、主客二元論を越えた思想は哲学の分野でも主流になってきているものの、デカルトの思想が深く根付いた西欧的な感覚では、強いアーティストと操作対象としての素材という関係性が根強くあるように感じた。

いわゆるフロー状態と言われるように作品制作の過程で自分を無にしたり、素材と一体化して、素材の声を聞くというようなプロセスは多くのクリエイティブな活動をする人が無意識、意識的にも行っていることだ。そんななかで私のアートが異なることがあるとすれば、そういった態度を意図的に作品の全面に押し出していること、それ自体がコンセプトとなっていることにあるかもしれない。

現象学:静けさは同時に他者に開かれる

ボトムアップ的な知覚というのは、哲学の中でも現象学に馴染みが深い。現象学は、私の理解だと現象そのものへの知覚の価値を見直し、その重要性を説いた哲学と捉えている。そのなかでもメルロ・ポンティは、見るものの主体と見られる対象を分離せず、共同的な身体として、一体のものと考えた。

実は私が冒頭で書いたように静けさについて考えていた時、静かであると同時に決して他者に閉じる訳ではないという矛盾に行き当たった。そんな時メルロポンティの考え方が突破口となった。静けさというのは、自分と対象の身体的な対話によって生まれるものであり、だからこそ身体を通して他者にも開かれているということを、彼の現象学を参照しながら考察したい。

『目と精神』第一説のなかでメルロ=ポンティ は科学を例に挙げ「操作主義」を「勾配」「マニプランダ」という言葉を用いて批判する。マニプランダとは知覚を手段と目的の関係として捉えるエドワード・トルーマンなどが示した行動主義心理学の考え方だ。そこでは手段と目的の関係の場が、私たちにとっての環境とされる。このような操作主義に対して、以下のように述べ、さらにこの芸術の生な意味(sens brut)を対置している。

「科学的な思考、つまり上空から鳥瞰する思考、あるいは対象一般に対する思考法は、それらの思考に先立つそこにある(il y a )ということに戻らねばならない。つまり感覚的で開かれた世界の持つ場と土壌に。そしてそれらは、私たちの命と身体の中にあるようなものなのだが。(中略)芸術、特に絵画は操作主義が無視しがちな、この「生な意味」の構造を頼みとしている。芸術そして芸術だけが、一心にそのように行う。(中略)画家だけが、その画家が見たものに対する評価を余儀なくされることなしにあらゆるものを見つめる権利を持っている。(メルロ=ポンティ 目と精神より)

ここでいう科学の操作主義がその対象をトップダウン的に知識に基づいて対象を判断しようとしているのに対し、画家はボトムアップ処理的に、対象がそこにある(il y a )ということを見つめる権利を持ち、それを感じるための感覚的で開かれた世界の持つ場と土壌として身体を位置付けている。

さらに、あらゆるものを見つめる権利をもつと書いてあるように、そこにある(il y a )をただ見つめる時、その対象の価値に優劣はない。わたしが痕跡のような価値が低く見過ごされるものを扱うのも、ボトムアップ知覚の持つこのような特徴を強調するためとも言える。

さらに目と精神の第二節においては、主体とその対象が共同的に身体化されることの重要性を強調している。

画家が世界を絵に変えることができるのは、自らの身体を世界に貸すことができるからだ。(中略)これらの変化を理解するためには、動いている実際の身体に戻らなければならない。つまり空間のかたまりや作用の束にでなく、視覚と運動の絡み合いである身体に戻らなければならないのだ」(メルロ=ポンティ 目と精神より)

このような対象との関わり方はアーティストの基本的な態度と思われるが、現代アート特にコンセプチュアルアートの文脈においては、デュシャンの泉に代表されるように、アーティストのコンセプトが先立ち、それを表現するために対象を操作するという態度が見受けられてきた。だからこそガブリエルオロスコのようにレシピエントとしてアートを行うことがセンセーショナルだったのだろう。オロスコは自身を空虚とすることで、西洋的な強い自己という考え方の脱出を強調したが、その態度は、自己とその対象を身体的な対話を通して一体化させるメルロポンティ的な態度と異なるものではないと感じる。これについてはまた別の記事で詳しく描こうと思う。                                       

見るものと見られるものはお互いの地図を作る

さらに身体と対象との関係性について、以下のマッピングの考え方はとても興味深い。身体と対象はお互いがマッピングをし合うものだと考えている。

私の位置の変化は原則として私の視野の一角に現れ、つまり見えるものの地図上に記録される。私がみるあらゆるものは、原則として私が届く範囲のうちに、少なくとも視野のうちにあり、私がなすことのできる地図の上に印づけられるのである。上記二つの地図はそれぞれに完璧なものである。見える世界と私が投げ入れている運動は、それぞれ絵に同一の存在の全体の部分をなしている(メルロ=ポンティ、目と精神より)

例えば以下の写真は私が<Pabvement, 2019>という作品の中で扱った舗道に落ちているガムのマークの写真である。メルロ=ポンティの言葉を借りると、私がこの舗道を見つめている時、私自身はこのガムのマークにマッピングされ、同時にガムのマークはそれを見つめる私の身体に印づけられる。

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Pabvement, 2019の元になった舗道の写真

私が見ているこの歩道のガムは、この広い世界においてほんの部分であるにも関わらず、私の身体と、ガムの<生きる意味>の絡み合いにおいて、この二つのマップはお互いに全体を指しているとも言える。Pavement, 2019という作品を展示した時に、月のクレーターや顕微鏡の中、もしくは脳のシナプスのように見受けられたという意見をもらった。舗道の一点という小さい世界の中から結果として宇宙感のような全体性を帯びているのは、偶然ではないだろう。

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Pabvement, 2019

コンテンポラリードローイングにおけるマッピングの考え方について以前の記事でも触れたのでよろしければご覧ください。

ボトムアップ知覚を越えて、<無人のもの>への意識の拡張へ

ここまで現象学を通して、見るものと対象の身体を通した交流とそれが身体を通して他者に開かれる可能性について考察した。わたしは多くの作品で自分の経験として現象学的に身体的な対話が行えた対象に対して、オロスコのように対象をを使って異化することを通して、鑑賞者にawarenessするという手法を撮ってきた。

そして最近関心があるのは、対象の未知の潜在性の大きさ、思考不可能な余地の大きを想像するということと、それに付随する身体感覚としての<遠さ>と<静けさ>について感じ、表現することである。

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そのことに関連して思弁的実在論を挙げる。思弁的実在論という現代哲学の傾向について共通しているのは、人間存在を前提としない実在論であるということだ。

その中心人物であるカンタン・メイヤスーは、『有限性の後で』という著書で、カント以降の近現代哲学には相関主義という共通の傾向があると指摘し、私たちが事物から受け取る認識や表象に還元されない<事物そのものについて思考すること>の必然性を訴えた。メイヤスーは人間の認識に必ずしも従属しない世界を思考する一例として、祖先以前性という概念を挙げたている。相関主義の立場からいかに世界が認識によってのみしか存在しえないと主張したとしても、数億年前から存在した化石や放射性同位体の存在を事実として否定することはできない。そのような論理により、人とは無関係に存在する事物<無人のもの>の実在性を主張した。

思弁的実在論の特徴は、相関関係を否定するのではなく、それを前提として相関のない事物それ自体を思考する可能性を認め、世界を有限性=相関関係の世界から思考不可能な余地にまで拡張したことである。

わたしはこの思弁的実在論にポジティブな可能性を感じている。その可能性とは、以下の引用に表現されている。

こうして<根本的に分からないがゆえにあれこれ言いうる>という余地がー有限性の彼岸にー生じる。メイヤスーによれば、この余地において、非合理的・神秘的な言明を認められることになるのだ。信仰内容のあれこれが、すべてリベラルに、対等な権利を認められることになるのだ。信仰内容に見られる矛盾を合理的に批判しても全く無駄である。なぜならそれは思考不可能生に依拠して言われることなのだから。むしろ思考不可能な余地があることを合理的に認めている以上、その余地において言われる非合理的なあれこれを、どれひとつとして優越的ではないというリベラルな態度によって放置することこそが合理的である、ということになる。(カンタン・メイヤスー 有限性の後で 訳者後書きより)

つまり、人とは無関係に存在する事物<無人のもの>の実在性を思弁する時の、果てしなく、壮大で静かな感覚は、信仰内容のあれこれが、すべてリベラルに、対等な権利を認められうる場所の感覚と同じく、そういう意味で[Common silence]と呼ぶことができるのではないだろうか。

こういった議論の中で私が興味があるのは、相関主義の外部に存在する非相関的事物それ自体=絶対的(ラテン語のabsolutesには結びつきを解かれたという意味があった。)=私たちの主観から分離された無関係なものについて、思弁するときの身体感覚である。相関関係=有限性の世界、の外部=大いなる外部があるとして、私たちが把握し得ない、認識しえない世界であり、私たちができるのは、そういった存在を含めて思弁することである。無人のものへの思弁によって感じる遠くて静かな感覚...その果てしなく長い一本の線のようなドローイングのような思考と、その先に異なる宗教や価値観の人々が感覚を共有する可能性にとても興味があるのだ。

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< 2021.1.7 筆者スケッチブックより抜粋>

絶対的な偶然性への思弁に付随する身体感覚とは、異なる宗教や価値観の矛盾をリベラルに認める世界観の身体感覚である。わたしが以前別のエッセイで書いたコモンサイレンス(全ての人の共有できる静けさ)とは、痕跡の中に存在する架空の理想郷なのではなく、その身体感覚として、このメイヤスーの思想に関連して実際に機能するものなのではないかと考えている。

 以前公開したCommon Silenceについてのエッセイ

痕跡:何かの行為の結果として生まれたもの

ところで痕跡というのは何かの行為の結果として生まれたものである。そういう意味で痕跡というのはその行為に従属しており、意図されていないという意味においては、その行為に従属した意味しか持たない。

例えば狩人が森の中に鹿の足跡を見つけた場合、その足跡を辿って鹿のいる方向を推測することができる。だからこそ、そうした推測があるということを前提として、バックトラック(動物が敵の追跡から逃れるために自らの足跡を踏みながら後退し、その途中で別方向へ跳ぶなどの行為)などといった意図的な痕跡の捏造などが行われうる。つまり痕跡はその痕跡が生まれた場所に紐づく限りにおいて、追跡や推測に利用されたり何かの行為の結果として事実に従属的に紐づけられる。それは店前に置かれた熱帯魚のようにその意味を限定された状態とも言えるかもしれない。

<場所にあることで意味を持つ痕跡たち>

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浮遊する痕跡:ものを因果関係から解き放つ

ここで最近私が制作を通して、考えていたことについて紹介したい。それは浮遊する痕跡というテーマについてである。

わたしたちの有限性の外部で、物自体がいわば<宙に浮く>のに伴い、必然性概念も<宙に浮く>のである。(カンタン・メイヤスー 有限性の後で 訳者後書きより)

では何かの手がかりである<痕跡>を浮遊させるとはどういうことか。以下の写真は私が自分のアートスタジオデスクから削り出した絵具の痕跡だ。

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スタジオデスクから剥がした痕跡の破片

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様々な国で拾い集めた石たち

写真で伝わるか分からないが、私はこの削り出した小さく様々な色の絵具の痕跡から、自然の中で発見した鉱物のような見飽きない美しさを感じた。デスクに張り付いている時には、それは元の綺麗なデスクを覆う汚れであり、私の制作過程によって付着した結果としての痕跡だったものが、名前のない物体としてバラバラになった時、それはその痕跡の持つ意味から解き放たれ、ものとしての生命感を放つように感じた。これは場所との関係性において、因果関係、意味の世界に縛られた痕跡を解放する試みだ。

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下の写真は、浮遊した痕跡の破片を使って作った実験的なドローイングの例だ。画像14

これらは浮遊した痕跡を銀の箔押しをつかって再度関係づける、もしくは、逆に因果関係によって関係づけられていた痕跡どうしが解放されていく過程のようにも見える。いずれにせよ因果のカオスによって見えなくなっていたもしくは複雑すぎて見ようとしなくなってしまっていた存在それぞれの持つ存在感、生命感は浮遊することで際立っている。それは、大地の一部であるクリスタルの岩の塊が切り出されることで価値のあるものとして売られるようになる、という構図と似ているだろうか。

痕跡の残らない場所:砂漠 

<無人のもの>について思弁する時、その思弁する行為を静かだと感じる。それは相関関係の不在という意味での身体感覚としての静けさだ。私たちは実際にそれを体験することはできない。あくまでそれを思弁するのみである。そうしたことを考える時に、ふと思い出すのが砂漠で経験した静けさである。

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2019年の冬に訪れたサハラ砂漠で、砂漠の静けさというのは、その物理的な静けさもさることながら、情報量の少なさにあると感じた。自分がつけた足跡も、数少ない他の生物の通った後も、数時間後には風によって消されてしまう。砂の上に風の描く流動的な線が絶えず動いている。ここではいつまでも時間が積み上がらないようなまるで常に入れ替わる水の中にいるような不安や恐怖とも言える感覚に襲われた。

様々な痕跡があり、それぞれに何かの行為後の気配を感じ意味であふれている都市環境に対極するような場所。<相関関係の不在>の身体感覚とはこのような感覚に近しいものがあるのだろうか。それはもしかすると心地の良い静けさなんかではなく、畏敬の念に満ち溢れた身体感覚しれない。

痕跡(因果関係)を知覚する者がいない場所:氷河、宇宙

では痕跡を知覚する者がいない場所はどうだろうか。そのその生命のない場所に痕跡はあるのだろうか。私はこのように因果関係の外の世界とそれを思弁するという行為に対して身体的な静けさを感じた。これに関連して、物理的に無人の場所について思考を及ばせるということの身体的な感覚について考えてみたい。こういう場所が<無人のもの>への思弁について考える時良い例となるのは、そこに実際に知覚をする主体となる者が不在だからだ。例えばその一つが南極の氷河である。氷というのは物理的に微生物すら生息することができな場所だ。

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事実、グリーンランドの大部分は、氷冠に蔽われていて、この氷冠の上は、全くの無人の世界である。無人の世界というよりも、これはまったく生命のない世界といったほうがよい。グリーンランドの地図を見ると、海岸に沿ったごく狭い地域だけに色が塗ってあって、内部は真白になっている。この白く残されたところが氷冠であって、少なくも日本領土の六倍はある。そしてそこにあるものは、雪と氷だけであって、木もなければ、岩も見られない。要するに黒いものは、何ひとつない世界である。(白い月の世界 中谷宇吉郎)

全く生命が存在しない世界である氷河は同じく生命の匂いがしないという月面空間、宇宙空間を思わせる。雪と氷だけであって、木もなければ、岩もないような場所に痕跡はあるのだろうか。それは例えば氷の中に存在する空気の粒かもしれない。そしてもしそのような痕跡があるとするならば、それを知覚するものが不在であるという意味においてそれは存在すると言えるのだろうか。それは相関主義的には存在せず、メイヤスー的に考えるとそのような存在について思弁することはできる。ということができるだろう。

名称未設定9

この氷の中には頼朝が吸っていた空気も閉じ込められている。白い月の世界 中谷宇吉郎)

生命のない場所で氷河が溶ける時、その音は誰も聞いていない。しかしその音の存在について日本に生きる私が思いを馳せる時、それはとても遠く身体的でもあり、静かだ。

現在はこの感覚についてさらに探索すべく作品を作っています。まだまだ書きたいことはありますが、長くなってしまったので今回はここまでにしてまた別の記事で続きを書こうと思います。ここまで読んでくださってありがとうございました。

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