がんばった、って言おうよ。
がんばって勉強した、と発言することがなんだか恥ずかしいと思っていた時期がある。
わたしは小学校低学年の頃からテスト勉強なるものが比較的好きだった。覚えた分だけ点数が上がるのが楽しくて、どうせなら100点を取りたくて、テスト前はいつもがっつり勉強に励んだ。勉強というよりは、暗記ゲーム、といった感覚だった。
しかし当時、必死でテストに備えているのは少数派で、多くのクラスメイトは、どこがテストに出るかよりも前日のテレビ番組の話や、いかに勉強をしていないかについて盛り上がっていたような気がする。
中学に進んでからもそれは変わらなかった。
仲の良い友人は、全くと言っていいほど勉強に熱意を向けなかったけれど、わたしがテスト前に一生懸命ノートを読み込んでいても嫌味を言ったりはしなかったし、何よりそれ以外の部分でとても気が合ったので、わたしは彼女たちといつも一緒にいた。
その頃にはもう、テストが返却されるときに「どうせあかりは良い点だったんでしょ〜」とおどけて言われることにも慣れていたし、それに対して特に話題が広がらないように、どっちともつかないような曖昧な返事をするのは、いつものことだった。
だけどずっと、違和感があった。
勉強をしていないことが自慢話のように飛び交うことも、ただテストに備えているだけの自分が、なぜか空気を読んでいることも。
良い点が採れたテストはなんとなく家でしか喜べなかった。
友人達のことは好きだったけれど、どこかで学校は自分の居場所じゃないように感じていた。
高校に進学して初めてのテストが返却された日、同じクラスのゆうちゃんの答案を見て、「すごい点数高いね、羨ましい!」と何気なく声をかけたら、「だってわたしめっちゃ勉強したもん!」と当たり前のように返され、わたしはものすごい衝撃を受けた。
そこには自慢も謙遜も一切含まれていなかった。
ずっと心に引っかかっていた感情は、その一言でキレイに消化された。
そうだよな、わたしには苦手教科だってたくさんあったし、記憶力に自信があるわけでもなかった。だからたくさん勉強しただけ。がんばったのは事実なのに、そう言えないことがなんだか歯痒かったのだ。
ゆうちゃんみたいにまっすぐ自分の努力を肯定できていたら、中学生のわたしはもっといきいきしていたのだろうか。
がんばった、と言うことを恥ずかしいと思わなくなったら、それだけですごく生きやすくなった。
自分自身のがんばりも、時には肯定してあげよう。
その結果が良かったとか悪かったとか、それはまた別の話だ。
自分にも他人にも、等しく素直に。
それだけできっと、空は少し広く見える。
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