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町田康 『告白』 についての覚書

 覚書なので熊太郎の頭の中みたいにゴチャゴチャしている。

 思考となる前の頭の中のモヤモヤを言語化することができないことによってそのモヤモヤは思考にまでたどり着かない。言語以前=思考以前(言語に先立つ思考は存在しない)の何かを頭に抱える主人公はその決まりの悪さを身体的な次元で表現しようとし、それは多くの場合は暴力となり、またときにノリノリのダンスとなる。

 では語り手は何をするかというと主人公が果たし得なかったモヤモヤの言語化を行う:その語りは主人公を救いはしないが、主人公と同じような傾向を持つ読み手にとっては何か靄が晴れるような気分になるだろうし、それは物質的困窮を解消させるような実利的な救いではあり得ないが、ある種の希望ではないだろうか。そのような営みがこの世に存在するということ、そのような苦しみに向かい合う一種の祈りがこの世に存在している/していたことは忘れられない。

 普段はグチャグチャになっている頭の中の思考以前=言語以前のモヤモヤが綺麗に言語化されるシーンの例;前半の葛木ドールを殺すシーン、中盤に酒蔵へ殴り込んで激昂しながら啖呵を切るシーン。このような特定の状況下;極度の緊張を強いられるが引くに引けず殺るか殺られるかみたいな状況においてリズミカルにリリックを刻む場合だけはよどみのない発話がなされる。あと発話のテーマとは少し異なるが、盆踊りで流れるダンスミュージックに我を忘れて踊り狂って忘我の境地に達することもしばしばであり、これもモヤモヤが身体の次元において表現されるという点においては発話のテーマと結びつけても良いのかもしれない。

 -> 熊太郎という主人公の身体と言葉(パロール)の関係について考えること。熊太郎という主人公の「吃音」症状と語り手の関係について考えること。

Cf. 『知覚の現象学』、『批評と臨床』

 「偉大な作家は、たとえそれが母国語であろうと、自己表現を行う言語においてつねに異邦人のごとき存在である」(ジル・ドゥルーズ、『批評と臨床』、守中高明・谷昌親訳、河出書房新社、2010年、p. 227~228)

 当たり前だけど言語において異邦人であるとは言語を使いこなせないことではなくて、むしろある言語を駆使して「自己表現を完璧におこなえる」(同書、p. 227)ことが前提となっているので、熊太郎なる登場人物は単なる異邦人にすぎない。問題はその熊太郎=言語における異邦人と語り手の関係。

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