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神を信じて7年目:間違った教えからの解放

神様を信じて7年目に入る、2024年 秋。

聖書では、7という数字は完全数とも言われ、
特別な数字です。



聖書における、7年目にまつわる話

聖書では、主人のしもべとして仕えていた人は、
7年目に解放されるという話があります。

神様がイスラエルの民に与えた規則の一つです(聖書 申命記15章1節)。


7年目の奴隷の解放は、
イスラエルの民がかつてエジプトに住んでいた時、
主(創造主、神様、イエス・キリスト)が彼らを
エジプトから導き出されたことと関係があります。

当時、エジプトで奴隷生活をしていた
数百万のイスラエルの民を
神様はかわいそうに思いました。

そして、
神にしかできないあらゆる不思議を行い、
ファラオに反対されず、
イスラエルの民がエジプトを出れるように導かれました。

神にしかできないあらゆる不思議、すなわち
・3日間エジプトで全地が真っ暗になる
(イスラエルの民がいる場所は例外)
・エジプト人も家畜も、初子だけ死ぬ
などです。

これらの神様のわざを通して、
イスラエルの民が信じている神様が
本物だと知れ渡ります。

おかげでイスラエルの民は
堂々とエジプトから脱出。

晴れて奴隷生活から自由になったのでした。


7年目の解放

このように
神様があなたたちイスラエルの民を
奴隷から解放したのだから、
あなたたちも自分に仕えている奴隷に
恵みを与えなさい。

そう、神様は伝えたかったのかもしれません。

神様の規則である律法の一つ、
7年目の奴隷の解放は、
隣人である奴隷を、
自分自身のように愛することの実践
とも言えるでしょう(マタイ 22章34-40節)。


私とどう関係するのか

さて、7年目の奴隷の解放が私とどんな関係があるのか。

それは、
私もイエス・キリストについての
間違った教えにまどわされて苦しんでいましたが、
ちょうど神様を信じて7年目に解放されたからです。

間違った教えとは
「イエス・キリストを
自分の罪から救い主として信じたら、
信じた瞬間までの罪は赦される。
その後の罪は告白しなければ救われない」
です。


なぜ間違った教えにとらわれたのか

私は就活相談をした先輩から伝道され、
苦しい時に神に祈ると答えられたことを機に信じ、
教会に行くようになりました。

引っ越してきた当時の家の、
目の前に教会があったからです。

そこで、神様が
私のすべての罪のために十字架で死なれ、葬られ、
3日目によみがえれたと聞きました。

「人生の苦しい時に
祈りに答えてくださった神様は真実だ。
そんな真実な神が、
私の罪を負って十字架にかかった。
みじめで愚かな自分でも救われるなら、
この神を信じたい」

そう思ったのです。


祈った時点では
「過去・現在・未来のすべての罪が赦される」
と信じていました。

でも様々な要因で、
間違った教えにとらわれてしまったのです。

・神様を信じたと興奮気味に伝えると、
牧師にやんわりと否定されたこと。

・教会の人々の様子から
「ありのままの自分でいるのは恥ずかしい。
悔い改め*なければ、神様の前には出られない」
と感じたこと。(注*:日本語では懺悔。キリスト教では方向転換の意)

・「罪を悔い改め続けると、
自分には罪しかないのがわかって辛い」
と相談すると、ヨハネの手紙 第一 1章9節から
「信じた私たちは罪を告白するだけでいいんだよ」
と言われたこと。
「え、まだ罪を告白しなきゃいけないのか」
と思って、悔い改めるのが嫌になった。


……どれも私の勝手な勘違い。
思ったこと、感じたこを
確認しなかっただけなんです。


それでも、
神様への素直な思いを否定されたようで、
罪を告白することも、
悔い改めの話を聞くのも嫌になりました。

だって、
自分には罪しかないってわかっているのに、
告白しなければ救われないんですから。


どのように気づいたのか

さて、苦しい時、困難な時って、
心の奥底にあるもっと深い苦しみを
知るチャンスだと思うんです。

先月、人と口論になって初めて
自分の信仰を牧師に否定された
と思っていたことが
ずっとずっと・・・傷になっていて、
苦しかったんだなと知りました。

「イエス・キリストを信じた後は
罪を告白しなければ救われない」なら、
いくら告白しても告白しきれません。

罪とは的外れであり、人はみな、
神から離れて自分勝手に生きています。 
すべての人が罪を犯すしかない性質を持っている=罪人なのです。

ですから、私はずっと、
罪を犯す自分を責め続けていたんだと知りました。

神様が機会をくれて、気づかせてくださったのです。


解放されて

自分の勘違いとお世話になった人たちを
赦せたことで、私は本当に解放されました。

もう、自分を責め続けなくていいのです。

何ができてもできなくても、
私は神様から無条件に愛されている。

神様の無条件の愛が本当に嬉しくて、
自然と笑顔になりました。

そして
「責められて当然の自分なんだから、
神様に気に入られるようもっと頑張らなきゃ」
みたいな焦りもなくなりました。

強迫観念のように、まるで義務のように
行動することがなくなりました。


今はもう、自由です。

「どんな自分でも
イエス・キリストの十字架のゆえに
愛され赦されている」

のだから。


まとめ

奴隷が7年目に晴れて自由の身となるように、
間違った教えにとらわれていた私も、
神様を信じて7年目に自由になりました。

2024年 秋~2025年 秋、
神様を信じて7年目となるこの1年は、
きっと神様の祝福にあふれる年となる。
そう信じています。
前回の記事も、その一つです。



キリストは、自由を得さえるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

聖書 ガラテヤ人への手紙 5章1節



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