見出し画像

私が声優・女優で存り続ける理由。

はじめましての方もこんにちは。
あかりです。
私が【声優・女優】で在り続ける想いを
今回書いてみようと思います。

少し長く暗い話になってしまいますが、
あかりが「心身ともに健康で好きで生きる」を
掲げている理由にもなりますので、お付き合いくださると幸いです。

表現することは、生きること。

画像1


これは私のクリエイター団体(2020/12法人化予定)の
アクトビットでもキャッチコピーとして使っているので、
昔からあかりを知っている人は見たことがあるフレーズだと思います。

演技が好きで役者や声優を目指す方や、
アニメが好きだから、声優を目指すと言う方もいると思います。

私は【演じることが、生きること】なんです。
「え?どう言うこと?」と言う方もいると思うので、
少し私の過去に触れながら説明したいと思います。

毒親と癇癪もちの妹との暮らし

画像2

私は親、特に母と馬が合わず、
今で言う「毒親」という環境で育ちました。
過干渉で、何かしようとしても母のやり方を押し付けられていました。

例えば、貧乏性の母と夏祭りに行った際
「焼きそばが食べたい」というと
『家で作れるから400円も払うのが勿体無い』と言われ、

「ケンタッキーが食べたい!」と言った日には、
母の作った唐揚げが出てきます。
子供ながらに、「そうじゃないんだよ!!」
と言う事が日々の中で重なります。

母に期待しなくなったのは、14歳の頃。
私は中学生に入ると一年生の時から
クラスでも部活動でもイジメにあっていました。

もともと芝居が好きで、
小学三年生のころから声優になると決めていたので、
詩文でどうすればいいのか調べ、
専門学校に行くことを考えていました。

高校卒業をしなければ専門学校にいけないとはわかってはいましたが、
あまりに辛く学校や部活に行きたくないと言っても、
「内申に響くから休むな」と言われていました。

そのうち、私は【抜毛癖】がついてしまいました。
気がつくと、円形脱毛症のように頭部がハゲてしまいました。
その頃になってようやく母も異変に気がつきましたが、
対策としての最悪の方法をとりました。

加害者グループの一人の自宅に私を連れて行ったのです。

結果はご想像の通り、
悪化するという最悪の結果になり、
その頃から母に本音を言うことをやめました。

また妹もとてつもない癇癪持ちでした。
数年前自閉スペクトラムのボーダーであると分かったのですが、
幼い時には分かりませんでした。

些細なことで大泣きする・殴る・蹴る・噛みつく。
爆発のポイントがわからず妹中心の生活でした。
また癇癪が起きると「何をしたのか」と私が問い詰められました。

何もしていないことを主張しても
「何かしたからこうなったんだろう」と問い詰められ
1人になりたいと言っても
「逃げるな」と1人になる時間をもらえませんでした。

こう言った経験から、
私は家でも学校でも落ち着ける場所がなく、
「夢さえなければ死ねたのに」と毎日苦しんでいました。


全てを芝居に乗せて

画像3

専門学校はお金がかかるとわかっていたし、
親に払ってもらうつもりだったので、
高校はどうしてもバスや電車を使いたくありませんでした。

少しレベルは高いけれど雨の日も風の日も自転車や
時間はかかりますが徒歩で通える高校を選び、見事合格。
でも数少ない友達は違う高校へ行き、
高校ではすでに中学校からの仲良しグループができていました。

演劇部に入り、冬にはバイトを始め劇団に通うと言うことをしていました。
そこで初めて同じ夢をもった仲間と出会い、とても充実した日々を過ごしました。

今までの思いや経験を
『いいことも悪いことも役にのせて表現する』と言うのは、
私にとっては感情を出すことそのものでした。

【芝居をする上で経験して無駄なことはない】と知りました。
平日は学校と部活、週2で劇団のレッスン。
休みの日にバイトと忙しくも充実した日々を過ごしていました。


解離性障害の影

画像4

それは突然の出来事でした。
もともと目が悪い私でしたが、なんだか世界の様子が違うのです。
夢の中にいるような、どこか他人事のように感じることが増えてきました。
レッスン以外では感情を出さないようにしていた事が原因で、
「離人症」になっていました。


当時気になって仕方なかった私が
スクールカウンセラーさんに相談し、親に自分では言えないため、
病院へ連れて行くように学校から言って欲しいと
カウンセラーの先生に泣きながら頼んだ末に
メンタルクリニックの先生から言われた事でした。

解決法は特になし。

夢の中にいるような、映画を見ているような感覚。
芝居をしていない時はまるで生きた心地がしませんでした。

そのうち、健忘が出始めます。
健忘とは「記憶の欠落」です。
例えば『特定の誰かといる時のことを覚えていない』とか、
気が付くとバイト代がなくなっていて
『買った覚えのない物が手元にある』などです。

結論から言うと、解離性障害の中でも当時珍しかった
解離性同一性障害(昔で言うと多重人格)になっていました。

そのことも誰にも言えずSNSに書き込んだり、
日記をつけたりしていました。
(症状を自分で検索してたどり着いた答えですが、
メンタル関係のでの不特定多数の情報収集は
その症状をみて『思い込み』で進行することもあるので、
あまり情報収集は行わないように注意してください)

そこで知り合った1人の女のせいで私の自生が悪い方へと変わります。



洗脳の果てに

画像5

細かい時期は覚えていないのですが、
当事者SNSのスレッドで知り合った彼女Aは、
同じような症状に困っているけれど、
うまくコントロールする術を知っていました。

そして、親身になって悩みを聞いてくれました。
今まで誰にも言えなかったので、
彼女に気づかないうちに、私は彼女に依存していました。

今となってはどこからが彼女の本心かわかりません。
ただ、最終的には「私を壊したかった」と言って去って行きました。

専門学校と養成所を出た時、これからどうしようかと言う分岐点に、
彼女は「家がいやなら、一緒に暮らそうと」行ってくれました。
家に居場所のなかった私はそれを喜び、二人での生活を始めました。

地獄のはじまりでした。
「私は、肌が弱いから洗い物ができないの」
「私はこの土地に詳しくないから、外にはあまりいけないの」
という理由から、家事や生活費を工面することは
私の役割になりました。

そして事あるごとに彼女は言いました。
「あなたは1人では何もできないから」
「私はあなたのためを思っているから」
「私の前では貴方(基本人格※1)でいて」※2

そしてそれを守れないと、
「あんたは存在する価値がない」
「あんたは芝居をする権利がない」
と罵られ、見捨てるぞと脅されました。

帰る場所がないと思っていた私は、必死に従いました。

※1 基本人格とは産まれたときの人格の事です。
※2 解離性同一性障害の場合、交代人格が複数いるので
記憶の維持が難しく、築かぬうちに交代をするという事で
「健忘」が生まれることが多いです。
しかし、私は交代することを許されませんでした。
解離性障害は脳の現実逃避方法の一つなので、
それを抑えるのはかなりのストレスや体の負担になります。


そのうち、私は解離性の意識障害が出るまでに悪化。
多い時は1日に2、3回倒れ、救急搬送される日々。

そうなると大好きな芝居どころじゃありません。

家事にバイトにレッスンにと言った日々の中、
ある日突然言われました。

「お前は私を家に置き去りしにして一人きりにする。
芝居をする権利はもう、お前にはない」と。

そこから自分の価値が見出せず、
どんどん症状は悪化。

人格の一人が暴走し、
普段は絶対に言わないような酷いことを
芝居仲間に言ってしまいました。

私の病の事を全く知らない友人はそれに腹を立て
無視され始め、顔が利く友人は劇団の名ママにも何かを言ったようで
全員から嫌な無視・嫌な視線を浴びることになりました。

私の、唯一の居場所も無くなってしまいました。

そこからの崩壊は早く、劇団にも行かないばかりか、
バイトも無断欠席、意識障害による搬送も増え、
流石に異変に気づいた母がその友人と距離を取るようにと
無理やり引き離される形で彼女と別れました。

実家にいても彼女から電話がかかってくるとパニックを起こし
叫びながら外に飛び出す日々。

妹がかんしゃくを起こし手を出してくると
自営のために刃物をもって外へ逃亡。

ほぼ毎日、警察のお世話になっていました。

地域の管轄には写真を取られ注意人物になる始末。
生ける屍状態で、精神病等に入退院を繰り返す日々。

最終的に、警察署に迎えに来た母の言葉がきっかけで
(本当にショックなもので、何を言われたかは覚えてません)
基本人格が消滅し、保護者人格が暴走。

空手をやっていたこともあり、警察官4人を相手に
警棒をうまい拳銃のホルダーに手をかけたことをきっかけに、
【措置入院】となりました。

完全に、私の精神は崩壊していました。

※措置入院(そちにゅういん)とは、精神保健福祉法29条に定める、精神障害者の入院形態の1つ。
行政行為あるいは強制であることを強調する場合は「入院措置」と言うこともある。
自傷他害の「おそれ」を理由に、強制収容できるため、事実上、予防拘禁や保安処分の機能を持つ。


※現在は症状は安定しています。
解離性同一性障害の第一人者である先生と専門のカウンセラー様より
症状についても問題ないし、自己解決能力もあるとお墨付きをいただき、
お薬も頓服使用のみです。


そんな中でも輝いていたもの

画像6

そんな状態でも「芝居をしたい」と思い続けていました。
どんなにどん底にいても、それが芝居に役立つと確信していたからです。

アニメの主人公も挫折をし、
強敵に打ちのめされさながらも
新しい目的や仲間を見つけて世界のために立ち上がる。

そのキャラクターを演じる上で、
このどん底の経験は必要だと私は考えていたからです。

軽い鬱、社会復帰へのリハビリなどを合わせて
回復には7年の時間が経過していました。

20代で体力と意欲がある本来輝ける時期を、
私は無駄にしてしまったんです。


回復をしても、芝居がしたいとバイトと都内のレッスンに通う日々。
そこではやっぱり楽しくて生き生きとしている自分。
以前よりも表現も豊かになり、経験が生きていることを実感。

私にとって芝居は、私の生きた証なんです。

だからこそ私は自分の感じたことを全て芝居に載せて、
さらに言えば【声だけで全てを表現する】と言う
最上級の演技力を身につけ
見ている人、聞いている人を感動させたいんです。

よりリアルなキャラクターは愛されるし、
誰かの心に永遠に生き続けます。

私は、私の生きた証と経験を無駄にしないために、
私の人生をかけて芝居をして行く事が使命だと思っています。


苦しみの中でしか演じられない役もある。
狂気を知らなければ表現できないものがある。

普通では体験できないことをした私だからこそ、
よりリアルなキャラを(存在させる)ために
私は芝居を磨き、続けて行きます。

これから目指すもの


画像7

そんな波乱万丈ながらも芝居に一筋だった私。
現在は旦那と2人の娘にも恵まれて新しい夢や目標ができました。
クリエイターやサブカルチャーの分野で活躍を目指す人たちを支援し、
誰もが「心身ともに健康で好きで生きる」を実現できる社会にしていきたいと思っています。

また、解離性同一性障害の理解が進んでいないので、
カウンセラー様やお医者様、当事者の周りの方に向けて、
「こういう病気なんだよ」「こういうことに困ってるんだよ」
と発信していければなと思っています。

最後になりましたが、
今回はここまでお付き合いくださりありがとうございました。

よければTwitterのフォロー・
HPやTikTokやyoutubeの視聴もよろしくお願い致します。

Twitter https://twitter.com/Akari_Vofficial
TikTok https://vt.tiktok.com/yAFt74/
youtube(ポートフォリオ):https://www.youtube.com/channel/UCuMmh2Jz8k12fpvFwt4VrGA

ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。

紀咲朱里

画像8

1988年4月30日生まれ。
声優・女優


経歴
平成16年〜平成22年 湘南アクターズスクール
(現、湘南テアトロ☆デラルテ)にてレッスン受講。
芝居やアテレコを郷田ほづみ氏に師事。

平成21年 専門学校東京アナウンス学院 放送声優科卒業
安田 夏望氏、荒木 香衣氏、島香 裕氏らに 指導を受ける。

卒業後は、新井 昌和氏、橋沢 進一氏、夕樹 ゆう氏らと関わりながら、 自分の技術をさらに磨く。

出演作品 舞台
・湘南アクターズスクール アンダースタディ公演 『素敵な花の咲かせ方』
・湘南アクターズスクール アンダースタディ公演 『12人の怒れる男』
・湘南アクターズスクール アンダースタディ公演 『はちみつ テイスティングver.』 ・湘南アクターズスクール 公開稽古 第一回即興トーナメント 最優秀賞​
・湘南アクターズスクール 公開稽古 第二回即興トーナメント 最優秀賞
・湘南アクターズスクール第三回 公開稽古 『別役実のコント検定』出演
・湘南アクターズ Vol.14 『ふしぎちゃん Hello&Good-Bye』出演

ラジオ
SAM☆Girlsのサバイバルオーディション
FM湘南ナパサ『きらめけ☆キャンパスメイツ』アシスタントMC
FM湘南ナパサ『LAZY KANGAROO』コーナーMC
FM世田谷『スターリーナイトクルーズ』アシスタントMC

映画
2015年 佳本周也 監督作品 『シャドー』 木ノ下 ゆりえ役

音声出演
2017年 3月~ 株式会社エスコアール様
2018年3月  株式会社ボードライク様
2019年3月 温泉施設 店内アナウンス

その他 youtubeナレーション、マンガコンテンツなど多数。

マスメディア
2020年1月 JRA 広告スチール エキストラ




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?