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恥じらいを知った日

今年ももうすぐ、あの季節がやってくる。
不意にその光景に出くわす瞬間が、いまもなお怖いような待ち遠しいような。

中学生の頃だったと思う。
田舎に住んでいた(いまも田舎に住んでいるけど)わたしは、片道およそ20分の距離にある学校へ通っていた。

3年間、学年が上がるごとに自分の内側に沈みこんでいくような日々を送っていたから、帰りの20分は自転車をこぐ自分のからだが風に溶けているように感じるくらい、くつろいだ気持ちになったものだ。

ちょうど今頃、2月中旬か末頃から3月にかけて、通学路の田んぼは菜の花が満開になった。
まだまだ寒さが厳しく、まわりの景色が灰色っぽく見えるなか、いきなり眩しいくらいの黄色とそのにおいが目鼻を突き刺してくるさまは、春の訪れには似つかわしくないほど暴力的だった。

その菜の花を、もうそろそろ稲の植えつけに備えようかという頃合いを確認した農家の人たちが、ひといきに刈り取ってしまった頃、わたしは初めてあの瞬間をむかえた。

三寒四温が五温二寒くらいにおちついてきた、暖かい日だった。
家に帰れるという安心感ももちろんだけど、陽射しだけで楽しい気持ちになれるような日だった。

いつもの道を通っていると、ふと違和感を覚えた。
見慣れた風景のはずなのに、何かがちがう。
からだにまつわりつく空気の色、と言えばいいだろうか。
風に溶けるような感覚にくわえて、何かがからだの表面からじわじわとしみこんでくるような感覚があった。

とばしてはいないけれど自転車をこいでいるのだから、まあまあのスピードが出ているはずなのに、からだがゆっくりと何かに侵食されているのをはっきり感じた。
その空気の色は、薄いのに、気配が濃厚だった。

…正体はなんだ?
とにかくあたりに目を凝らした。
その間にも、圧してくるような肌の感覚が、不気味なのにきもちよくて、のみこまれそうだった。

まずわかったのは、その空気の色がピンク色であるということだった。
藤色や、ねずみ色、マジェンタを全部いっしょくたにしたような、薄いような濃いような色。

つぎに気づいたのは、その色の出どころだった。
その道沿いにはずっと、木が並んでいた。

思わず自転車を停めてしまった。

桜の木だった。
どれ一つとして、まだ花はついていない。
なのに、桃色の気配を漂わせていたのは、その幹だった。

儚い花びらのイメージとかけ離れた、いつもは乾いてゴツゴツしている幹が、うっすら紅潮していたのだ。
花が咲いている時期も、緑の時期も、それが枯れた後も、幹はいつも真っ黒く見えていたのに。
それがいまは、内側が火照っているかのように、幹が赤みを帯びている。

見てはいけないものを見てしまった気分だった。
なんだか後ろめたくて、でも視線をそらすことができない。
言葉にできないうえに、言葉にしてはいけないんじゃないかと思うほど妖しく、生々しく、身をよじっているようだった。

いま思い浮かぶことばで端的に言ってしまうならば、あまりにもエロティックだった。

そしてその力にすっかり支配されていた自分に、驚いたのと同時に強烈に恥ずかしくなった。
だって、本当に、明らかに、「からだが」きもちいいと感じたのだ。鳥肌が立ちそうに感じるほど。
視覚や嗅覚を通さないで、じかに脳が快いと感じたあと、それが全身に広がるようなかんじ、とでも言おうか。説明が難しい。

その翌週あたりに、桜は花開きはじめた。

あの光景は、気のせいだったのかもしれない。
なぜなら、あれ以来一度もその光景には出会えていないからだ。
もう十数年経つけれど、だいたいいつも近所に桜がある環境にいるのに、あのタイミングは狙いようがない。

でも1回しかなかったことだからこそ、これほど強烈にちゃんと体感をともなって覚えていられるのかもしれない。

わたしの住む地方ではもう例年の開花宣言日が近づきつつあるけれど、今年もそこここの桜を眺めながら、やっぱりあの光景に出くわす瞬間が怖いような待ち遠しいような気分でいる。

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