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一人の人間として見てほしい。


私は小学生の頃からねじりにねじり曲がった性格をしていた。

小学生は小学生らしい感覚や表現や考え方で過ごすもの。という考えが、当時の私は嫌だった。

それは周りの目が「小学生だから」「まだ小さいから」と〝 出来ないことを勝手に決めつけること〟に苦しく感じていたからだ。

子供は大人が思っているよりも、考えはしっかり持ってるし、人によっては、大事な場面とふざけてもいい場面のメリハリもつけられる子だっている。
なのに大人はその人個人を見る前に、頭の中で「小学生」という何も知らない何も出来ない人間として当てはめてしまう人がほとんどだ。

そういう考えを当時は言葉には出来なくても、ずっと違和感として抱えていた。今思えばこの時は常に人を疑いながら過ごしていたのかもしれない。

いつしか私は、相手にされなくても仕方ない、という諦めの感情からヘラヘラとしたキャラを被るようになった。

もちろんそのへらへらした自分も本当の自分だ。

自分が苦しまないよう心を守るため、後から作りあげた自分ということを自分で把握しつつ、楽になるために続けていた。
へらへらした自分に何度も救われたのも事実だ。
思いついたあかりちゃんに感謝(๑ーㅅー๑)

そして社会に出た今、色んな人と接することになった。
学校に通っていた頃は、同い年くらいの子しかいないのが当たり前。
でも、社会に出ると私と一回りも二回りも年の離れた人が、同じ空間で同じようなことをしているのが普通になる。
初めはそれが不思議に感じ、年齢差の感覚が麻痺して高校時代の3歳差なんて誤差のようなものだと思いだした(失礼)


そして、社会に出たら「若いから」と言う理由で舐められるのは想像がついたが、それに重なって「へらへらした自分」が裏目に出ることにも気づいた。更に舐められやすくなる、ということが分かったのだ。
私は、今のままじゃダメだ!と思い始める。

しかし、何年も小さい頃から続けてきたこと。
今更ヘラヘラモードを無くすことも難しい!と頭の中のあかりちゃんと話し合った。

だから時間がかかっても構わないから、真面目な部分を少しずつ外に出してみようと今頑張っているところだ。

それと同時に、そんな大人ばかりじゃない。というのも社会に出て知った。

見た目や雰囲気で判断せずに、ありのままの私を見てくれる人達もいる。

その人たちのおかげで、本来の自分を人前で出したいと思えたし、私も見た目や年齢に関係なく一人の人間として見ることができるようになりたいと考えるようになった。

何も知らない人への印象を決めつけようとしない。


話してみて、雰囲気、考え方でその人がどのような人間なんだろう。と考え、相手を理解した上で関わっていきたいと思う。

そして、幼い頃の自分と似たような子に出会った時、私がその子のことを1人の人間として見て、向き合えたら、その子も変に息苦しさを感じずに済むのかなと思った。

ちょっと飛び抜けたことを言うかもしれないけど、

ほんとに、優しさって色々あるね。





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