愛とは

 昨今、愛について問うキャッチコピーが存在する。映画「天気の子」の主題歌となったRADWIMPSの「愛に出来ることはまだあるかい」や、アイフルのCMの台詞「そこに愛はあるんか?」である。
 これまで多くの作品が愛に関してテーマ設定を行い、各々の愛観を提示してきたが、時代は愛そのものの存在に関してのテーマ付けが成されているものが多い。
 以前、「コリントの信徒への手紙一」の愛についての記述からその性質の「自分の利益を求めず、」をピックアップし、そのカントの道徳法則的な愛の在り方を提示し愛の再定義を求めたが、それは現代の全体的なテーマとなっているようだ。
 愛という抽象的な概念があらゆる方法で摩耗されてきた今、この二つのコピーは、何に疑問を持ちどういった再定義を促すのだろうか。
 まず、映画「天気の子」の中の愛とは、人類愛とは真逆のものである。主人公はヒロインを救うか、世界を救うかの二択に迫られ結果的にはヒロインを救うことに決めるのだが、その中で彼は他者に銃を向ける。ここでは他者を傷つけてまで彼女を救おうとする主人公が描かれるのである。元々ヒロインを選択した時点で道徳法則的な愛ではなく、私が彼女を世界を犠牲にしても救いたいという私欲となる可能性は捨てきれないのだが、RADWIMPS野田洋次郎は別の視点から「愛」を語る。

それでもあの日の 君が今もまだ
僕の全正義の ど真ん中にいる

世界が背中を 向けてもまだなお
立ち向かう君が 今もここにいる

 これは「愛にできることはまだあるかい」の一部である。この一文からは「僕」、「君」、「世界」の共通の立ち向かうべきものの存在が示されており、「君」のみが事実立ち向かっている状況である。そうした「君」の姿が「僕」にとっての正義だとしている。

愛にできることはまだあるかい 僕にできることはまだあるかい 
君がくれた勇気だから 君のために使いたいんだ 
君と分け合った愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

 ここで野田が語るのは、「与えられた勇気」と「分け合う愛」の存在である。先述したとおり、「僕」は一人でも立ち向かう「君」を正義だとし、その姿から「勇気」を与えられている。この「勇気」は「君」のために使うものであり、上記にある一見私欲的な愛に見える行動は「勇気」故の行動であることがわかる。
 次に「分け合う愛」とは、元々一つのものを分かつ為に、この「愛」は「僕」と「君」では全く同じものを指す。故に、この愛の対象は「君」ではなく「君」が救おうとしている「世界」を指すのである。つまり、主人公の行動は世界とヒロインを天秤に掛けたのではなく、ヒロインを救うことで間接的に世界を救うことを選んだのである。
 ここで示される愛は実に現実的なものである。単なる自己犠牲の精神を語るのではなく、間に存在する勇気を描く。愛とは力ではなく、あくまでも精神として備わるものなのである。

 次にアイフルのCMであるが、これは印象的な女将が板前の言動に対し愛の有無を指摘するという大変シンプルなものでこれは慈愛的な「愛」の形を示すものである。これまで、行動的な「愛」について多く触れてきたが、慈しむ愛も「自身の利益を求めない、」精神が含まれるものである。
 多くのシリーズが存在し、料理、蝶、渋滞など様々であるが一貫して「そのもの」の有様に関して動かない、静観することが板前には求められている。自身の言動を愛として与えるのではなく、そのままの状況を愛として与えるのである。
 これは、他者理解の方法の一つであり、仕方のなさを受け入れる始まりである。『されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ』(マタイ伝第五章三十九節)などはこの愛の最上級のものとして存在するのではないか。
 多くの作品で、愛は不思議な力を持つ力として存在しておりその抽象の大きさからある種のジョーカーのような立場であった。しかし、愛の再定義を行い、またそれに付随する現実的な問題に目を向けることでより愛を自身に認めることが出来るのではないか。

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