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空っぽに、なる

ずいぶん長いお休み


体調不良、そしてたぶん自律神経の乱れから、いろいろな活動にストップして1ヵ月半くらいになる。小学生だったら不登校という状態なのかなと思う。劇団に行けなくなり、連絡もほぼせず、それ以外の入れた予定も体調や気分によりキャンセルして、という生活をしていると、「がんばれば行けるんじゃない?」「顔出した方がいいんじゃない?」「あなたがいないと困るのよ」という声が聞こえる。その声は、いつかの、頭の中に張り付いた記憶。そこからヒモが繋がっているように、点在する記憶たちが繋がって呼び起こされる。

わたしを使わないで


お母さんも、小学校の先生も、
わたしを「使う」んだ。
「使える」わたしは役に立つから、
ここにいていいんだ。

そんなふうに、わたしは奥の奥で思い続けていた。だから、クラス委員や何かのまとめ役(たいていは裏方だった)をやることで安心していた。これをやっている間はここにいていい。だからがんばらなきゃ。望まれる通りに、うまくやらなきゃ。
手話に関わる仕事を始めた時、社会の中に絶対的に必要で、双方のコミュニケーションを担う役割に魅了された、のだと思う。ここには、絶対に、わたしが必要だ。当時は全く意識していなかったけれど、わたしの存在意義と仕事が同一化していた。歳を重ね、少しずつ手話通訳の技術に衰えを感じ、次世代を育てなければ、などと思い始めたところで怪我や病気やトラブルで手話を休むことになった時、わたしの存在そのものが揺らいでしまうのを感じた。

最初は、怒りだった


休むことの申し訳なさを感じながら、どうしてわたしに依頼しないの?わたしならできるのに。他の人より上手くできるのに!そうしたらろう者は助かるし笑ってくれるのに!!そんな激しい感情も湧いていた。
しかし、実際にはわたしが休んでも誰も困らなかった。派遣の制度は複数の登録者で回していて、以前、派遣担当者から「あなたにしかできないから」と言われていた案件にも代わりはいたし(やりくりは大変だったのかもしれないけれど)、結局はなんとかなるのだという現実を思い知らされた。
さらに、劇団にも行けなくなって、ごめんなさいと謝った時に「その状態で来られても困るからゆっくり休んで」と言われた時、優しさが嬉しかったし、行かなくていいことにホッとした。だけど、本気で絶望した。(そんなふうに感じてしまう自分に驚きもした)
体も心もしんどくて、手話も見たくなかった。通訳していると心がザワザワし始めて、あ、今何かわたしがしなければいけない?これでいい?まだ足りない?間違えた?と自動的にエンドレスで考えてしまう。冷静な判断ができていない。そんな状態なのに、一方では、行っちゃいけないんだ。もうわたしはいらないんだ。そんな絶望感が湧いていた。

何もないわたしでもここにいていいのか?


無理して行っても役に立てないことを実感して、それなら休めるだけ休もうと思った。家にいて、猫のここと、夫と、平穏な暮らしをしている間は、これでいいんだと思える。幸い、夫からせかされることもなく、「ゆっくりして」と言ってくれる。本当にありがたい。ごはんを作ること、掃除をすること、それも自分のペースでやっていいなら、自分を保っていられる。だけど、時折、ずっとこのままなのかな?これでいいのかな?みんなもっとがんばっているのに……という考えが浮かんでくる。

言い訳をやめる


家事の他にはスマホを見たり、ヨガや散歩をしたりする。ぼーっとすることも、前よりできるようになった気がする。自分と繋がることをやっていると本当に心地よくて、「え、わたしってこんなことをやりたかったんだ」と驚いたりする。
それは思ってもみないことで、例えば、スープをとるのに使った骨付き鶏肉の身を最後の最後までしつこく削って食べると美味しい、みたいなことだったりする。この瞬間を誰かに見られたとしても「美味しいんだよね、これ」と、今なら笑って言えるかもしれない。お休み前のわたしなら見られたら隠したりごまかしたりしていただろう。(ここに書くのもちょっと大丈夫か?と思う。大丈夫でしょうか)

『私小説』というドラマ


実在の恋愛小説家をモデルに描かれたテレビドラマを配信で見た。発達障害を公表している作家の、夫婦の物語だった。ドラマではあるが、繊細で人の悪意に触れてパニックになってしまうところや、テンションの上下降の激しさ、些細なきっかけで動けなくなってしまうところとか、共感しすぎて胸が苦しくなった。
そして、またこう思ってしまった。「こんなふうに生きたい。生きづらくても、このままのわたしで生きていたい」。
実際、わたしの周りには繊細な人がたくさんいる。わたしはそんな人たちを助けたいと思っていた。そのためにわたしはいわゆる健全?で、大丈夫でいて、「ね、大丈夫なんだよ」と言いたかった。けれど、そんな考えはハリボテだったのかもしれない。
本当は「わたしも一緒だよ」なんだな。そう認めた時、また安心が深まる気がした。ちょっと怖いけど、少しずつかもしれないけど、ハリボテを外しても大丈夫かもしれないと思えた。

よろしければサポートいただけましたらうれしいです。アカシックリーディング、ヨガ、わたしの体験してきたことをお伝えして、ありのままの自分で生きるお手伝いをしていきたいです。