見出し画像

3月に体感したことを書けるだけ書いてみる③

ごめんなさい


手話のことは自分の一部だと思い込んでいた、特にこの数年は、できますけど何か?くらいの勢いで仕事でもやっていたし、劇団やそれ以外の場では必要なら無償で通訳することもあって、それはわたしの喜びだった。広い目で見ると特に上手じゃないしそこまで専門的ではないことも自覚していたけど、それでも手話も通訳することも好きだったから、求められたらやれるよ、というスタンスで何でもやった。時間も内容も変化がある方が向いていたし、ある程度こなせるから苦しくない。楽しかった。忙しさはご褒美くらいに思っていた。身についた技術でただ手を動かせば誰かが喜んでくれる。これでいい、と実感して生きていられた。
だけど今思えば、走り続けたことで体や心は疲弊していたし、専門技術を無償で提供することやその対価にたとえ不満があっても言えない業種だと思い込んで飲み込んできた。それでも、立ち止まらずに「やれるからやる!」とやってきた間、自分の気持ちや調子はあまり気にせず、過信もしていた。本当はつらかった時も、望まれたら無理してでも引き受けた。無理してることにも気づかなくなっていた。わたしできるもん!必要とされてるもん!と。
助けてくれようとした人たちもいたけど、本当に「わたしは大丈夫!」と思っていたし、迷いもなかった。
だけどその行為は他の人の仕事を奪っていたと今はわかる。そして今回、急に動けなくなって迷惑をかけてしまったと思う。わたしにも、周りの人たちにも、ごめんなさい。それしか出てこない。

いったい、いつから?


いつから、どこから、こんなふうだったんだろう?こうなってから、わたしは特別だとか、わたしだけにはできるみたいな変なプライドがあった。気づいてなかったけど。それがガラガラと壊れてしまって、出てきたのは一人の世界が好きで、怠け者で、ぼーっとしてることが大好きな、どちらかというとおとなしい、だけどわがままな、子どもの頃の自分だった。
そんなふうだから、一旦お休みして閉じこもってからは、年度末の忙しく流れる周りの動きにちょっと触れるだけで、あ〜ついていけないわ、と思って離れてしまう。カタツムリみたいに殻の中にシュッと入ってしまう。ほっといていただいて結構ですよ。気にせずお先にどうぞ、わたしはもうしばらくここにじっとしていますので。そんな自分が情けないと感じる時もあるけど、動く気にならない。それは今が回復期だから、なのかもしれないけれど、よくわからない。

今しかない


時間の流れはなく、今しか存在しない。
宇宙的な考えやスピリチュアルでよく言われることだけれど、そのことは実感している。大いなる存在がわたしを通して世界を作り、世界を愛でて楽しんでいるだけ。わたしの感情や目の前の現象も全部、ハリボテのようにつつけば倒れるくらいに軽やかだ。
だったら、今何をしたいのか。
なぜ今立ち止まっているのか。
ちょっと元気が出てくると、人の期待に応えて行動してホッとしたくなる感情を感じながら、また自分の中に閉じこもって静かにしてみる。

ヨーガの教えとともに


しっかりヨガを始めてから7年くらい経つ。先生もそうだが、この場所を通じて出会った仲間は何のごまかしもなく話せてわたしの軸になっていると言えるほど。ヨガには「つながる」という意味があり、頭と心と魂を繋いでいられることが一番幸せで、全てのベースになると感じる。
この30年近く、最終的には「手話があるから」と避け続けていた、徹底的に自分に向き合うという課題がやってきている。もうごまかせない。こんなふうに思うのは初めてじゃない。螺旋を登りながらいつか避けたはずの課題の扉がまた来る。今の自分にぴったりの形で。また避けるか、向き合うか、自分で選べる。
何度も課題が来ること。波があること。それは自然なこと。そうやって次、次と扉を開けていくのよ、とティーチャーは笑って仰った。

ゆっくり、ゆっくり

名前に「亀」が入っているので、劇団の仲間にも「亀のようにゆっくりね!」と励まされている。どうなるかわからないのは不安で、すっかり元通りになって「ご心配おかけしました!」とできればいいなと思うのだけど、今はそうなれない。元通りって何だっけ?という気もする。淡々とこの状況を受け入れるしかない。
今までの元気なあなたは嘘だったの?とか、そろそろ元気になった?とか、誰にも言われてないのに頭の中で声がしている。申し訳ないという気持ちも消えてはいない。それでも、ゆっくり、ゆっくり、自分を生きる方を選び続けていこうと思っています。
(3月30日。一旦、終わり)

よろしければサポートいただけましたらうれしいです。アカシックリーディング、ヨガ、わたしの体験してきたことをお伝えして、ありのままの自分で生きるお手伝いをしていきたいです。