週末エッセイ#44「鱈が好きということ」
3月の連休に、長野に住む祖父母の家に久しぶりに遊びに行った。
新幹線の駅で合流し、晩御飯の買い物の為にスーパーに寄った。
祖母と一緒に、生鮮コーナーを歩く。
やっぱり田舎のスーパーは安いなぁと感動しながら歩いていると、祖母が魚売り場で立ち止まった。
「あんた鱈好きでしょ。鱈鍋にしようね」
そう言って鱈をカゴに入れてくれた。
私はものすごく驚いた。
「私は、鱈が好き」
そんな事は、母以外誰も認知していないような、ものすごく些細な事だと思っていた。
からあげ、モスバーガー、ハッシュドポテト、とんこつラーメン、もんじゃ…他の好きな食べ物ほど口に出してそれを好きだと公言していない(そして私の中でメジャーな好物のなんとジャンキーな事よ)。
しかも、鱈は大学生になったあたりから気に入り始めていて、そんなに幼いころから「鱈が好きなの!」なんて事を言っていたわけではない。
そして、母と違って祖母と会うタイミングは年に2、3度あるかないか。
多分、過去どこかのタイミングで私が言ったのかもしれない。でも、言った本人もいつ頃そんな事を言ったのか覚えていない。
こんな小さな事を覚えてくれていたんだ。
それも、「アタシ知ってんだからぁ!」と特別な事のように言うわけでもなく、
あまりにも当然の事のようにサラッと言うものだから、驚いてしまった。
そしてふと思った。
「自分が鱈が好きであるということ」くらい小さなことまで覚えてくれている存在って、この世にどれくらいいるのだろうと。
こんな存在が身近にいるって、相当幸せな事なはずだ。
子どもの頃は「あたしねぇ、〇〇が好きなのぉ」といつでも口に出してアピールしていたし、周りの大人も微笑ましくそれを聞いていた。
でも、社会に出れば、「いやお前のことなんか知らんわ」で溢れている。
自分の事を話しすぎると「隙あらば自分語りw」と揶揄され、会社のお昼休み、そして友人と話す時でも「そんなの知らんわw」と言われないような話題をなるべく選んでしまう。
社会に馴染んでゆくにつれ、相手が自分の事情を知っている前提で話さないように気を付ける。
「ええ、皆さん、私の事情なんか知ったこっちゃないですよね」という前提のもと生きてしまうようになっている。
だから、こんなことまで覚えていてくれた事が新鮮だった。
なんだか子どもの頃に戻ったような感覚だ。
「覚えている」ってこんなに人を救うんだ。こんなことまで覚えてもらっているって、相当愛されているんだな、と思った。
祖母自身、孫である私の何気ない言葉も普段から聴き流さず意識して聴いてくれているのだろう。
こちらは何も考えず当たり前のように愛を受け取っていたけど、祖母のやっている事はきっと、簡単なようで本当はとても難しいことだ。
私も、大切な人の小さな事を覚えていられるようにしよう。何気ない会話が流れて行かないように生きよう。
慌ただしい新年度が始まる少し前に、「私も愛されているんだ」と実感することが出来て、4月からも頑張ることが出来たのであった。
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