資本主義と暇
あなたの生活において、暇だと感じる時はどのくらいあるだろうか?そして、その暇を退屈だと思うときはどのくらいあるだろうか?
私個人において考えてみた時、暇だと思う時、ほとんど退屈している。何もやることがなくて、やりたいことがどこにあるのかわからない。そんな瞬間を見つけるたびに私は不機嫌になる。
「何かするために生まれてきたはずであるのに、何もやることがないなんて!?」
やりたいことを見つけるためにはどこを探していいかわからない。とそんなことを思っている間に、楽しさとは提供されているものだということに気がつく。テレビをつければ新しい商品のCMが流れており「新食感」などと言われている。YouTubeを見れば、YouTuberが「最高に楽しい」何かを消化している。いつの間にか私は提供された楽しみを求めている。
こう考えた時、私たちの暇はレジャー産業やSNSに搾取されていると言える。私たちは退屈と向き合うことを苦痛に感じ、そこから逃避するために都合よく用意された楽しさへと流れていくのだ。
私たちは何も考えずに用意された楽しさへと流れていくが、楽しみを用意する人が悪い人で、用意された楽しさによって世界を悪い方向へと導こうとするのであったらどうしようと思ってしまう。
そして、こういうことは過去に起こってきた。私たちは手軽で楽しいからという理由で大量に食料を生産し、大量に消費する世界に生きてきた。その結果、食糧生産の時点で排出されるCO2は歴史的にみても異常なまでに跳ね上がり、消費によって多くの廃棄物を出している。現代における大量生産消費社会は未曾有の環境問題をもたらし、人間だけでなく、地球上の動植物にとって危機的な状況を作り出してしまった。もちろん、大量生産消費社会がもたらした富もあるだろうし、そういう世界を作り出していた人たちが「環境を破壊してやろう〜」と思ってやっていたとは思わない。とはいえ、私は人間の大きな心理要素として暇=退屈、そしてそれを手早く解決したいという思いが人を提供された楽しさ、生産者から提供された需要を消費へと促しているのかもしれない。
ただ、それが悪いとは、今の私は言えない。私自身、退屈が絶望に変わる前に楽しみや気晴らしを与えられて、絶望を回避することができているからだ。
しかし、ここで一つの疑問が残る。
暇が退屈に変わる前に、暇を乗りこなすことはできないか?
ここで生まれる言葉が余裕ではないかと私は思っている。goo辞書によると
余裕とは、ゆったりと落ち着いていること、心にゆとりがあること。
暇ができたときに、その暇を享受して、ただゆったりと落ち着いていることができればいいのだ。そして、ゆとりのある心に浮かんできたことをふわりと考え始めて、いつの間にか暇から脱却する。そして、また暇がやってきたらただゆったりと落ち着けばいい。
「そんなことできないよ、新しく入ってくるPRや広告から逃れられず、いつの間にか私たちは暇を退屈と思ってしまって、与えられた方向に逃れてしまう!」そんなことを思う人もいるかもしれない。その状況がそもそも不自然だとは思わないか?無視できないほどに与えられた需要と楽しみが私たちを依存させているのかもしれない。そんな世界に、ちょっと待った、というのは、時代錯誤だろうか?
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