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アリストテレスに救われる

2年ほど前、文字が全く読めなくなったことがある。小さい頃から本が好きで、時間があれば読書をしていたのに、いつの間にか1文すら理解することができなくなっていたのだ。本が読めなくなっただけでなく、母語ではない言語は聞くこともできなくなった。それから今まで、母語以外の言語の聞き取りはかなり回復したと思うが、2年以上前の読解力が戻ったとは思えない。

気がついたのは英語の文献を読んでいる時だった。大学の課題で課された読み物で教科書の文章だったので簡単な文章だったはずだ。それにもかかわらず、1時間たっても一文が読めていなかった。最後の1文字まで行くと、分の最初の方で何を言っていたかわからなくなっているのである。次の文に行っても理解ができないと思い込んで、最初の1文字から読み直す。すると、また最後の文字に来ると、最初の方に何を言っていたかわからなくなる。これを1時間も繰り返してしまった。

実はその頃から、最近集中力が切れやすいな〜とは自覚していたことを覚えている。長い映画は休憩を挟まないと最後まで見られなかったり、学校の授業でも、30分くらい経つとそわそわして、何も用がないのに教室の外に出ていたりした。だが、忙しくて、気に留めていなかった。

しかし、文字が読めないとなったら困ったものである。一瞬パニックになり、次の瞬間から文字が読めないのか言語が理解できないのか、まず調べることにした。言語は理解できているようだった。しかし、母語はわかるが他の言語はめっきり聞こえなくなっていた。他の言語は呪文のように感じた。その頃になると授業に出るのが恐ろしくなり、座っているだけで呪われている気分で授業が終わるたびに泣いた。同棲していたパートナーに朝起きて、授業に出たくないと泣きついたこともあった。

それから色々と調べて気がついたのが、パターンのある記号を読んだり覚えたりする力が著しく衰えていることに気がついた。文字だけでなく、数字もわからなかった。1から数えて5くらいには次の数字は何だっけ?と今まで数えてきた数字を忘れてしまう。

この事実がわかった時に、絶望した。学生をもう続けられないと思った。それに、その頃は演劇が好きで自分でも舞台に上がることもあったので、文字が読めないとなると台本も読めないので心の底から悲しかった。このせいで私は大学を休学することになった。

それから2年。今日の朝までは、本が読めない、数字が数えられないことがコンプレックスだった。これから一生できるようにならないという気さえしていた。その気持ちからかはわからないが、つい最近まで、2年前で私の生産期は終わってしまい、今は余生を過ごしているのだと言い聞かせていた。

しかし、今日思いつきで立ち寄った古本屋で、衝動的にアリストテレスの形而上学を購入したことから私の世界は変わることになる。

それこそ、お恥ずかしいことに文字ばかりの本は2年間買ったことがなかった。なのに、なぜよりによってアリストテレスの形而上学だったのか…。それでも、立ち読みしてしまうほどに面白かった。少し高かったが購入。本が買えるようになったことが嬉しくて、ブログを拝見している辻仁成さんの海峡の光も買った。

家に帰ってきて、仕事を終わらせ、脇に置かれた形而上学と白地に青いマーカーを惹かれた表紙を見る。難しそうに見える。「これ、1ページも読まないで終わるかも…。」と思っていたが、夕食作りの最中、ブロッコリーを茹でている時に暇だったので、また、ちら、と開いた。「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」と言う有名なセリフから始まる第1章が始まった。

知ることは何か、と聞かれた時、私は「知識を得ること」と答えていただろうが、アリストテレスの知への考えを知ると、なんて浅いのだ、と反省した。「知識」が何なのかを考えいるのだ。ここでも、私の浅はかな知識へのステレオタイプが溢れる。ここから、形而上学上での私の思考とアリストテレスの論述が葛藤する私の頭の中をぜひ感じてほしい。

「ええと知識とは誰かから教えてもらったり、本で読んだりすることかな…?」
「それは一番初歩的な間違いだね」
「ええ?」
「誰も最初から先生には慣れないだろ?」
「なれるよ。ファーストキャリアで先生になる人はたくさんいる。」
「どうやってなっているの?」
「テキストで勉強するとか授業を受けたりとか…」
「じゃ、テキストを作った人は誰なのさ?」
「え〜?」
「それは経験をした人だよ。誰かに教えるということを何らかの偶然や意図的な目的(快楽への目標)を持って経験している人が一番スタート地点にいる」
「と言うことは、知識とは経験することなの?」
「それだけじゃないけど、少なくともそこがスタートだね」

驚いた。何もかも腑に落ちてしまった。私はずっと「本が読めない」と言うことでインプットの能力が乏しいと考えていたが、経験については山ほど語れることがあった。浅すぎるステレオタイプな考え方のせいでわからなかったが、知識をえていたのだ。しかも、アリストテレスから言わせるとさらに根本的な知識に近い方法で。

この2年間本が読めなかったことはマイナスではないと確信できた。その分自分で経験したことが山ほどある。

本を読むことは誰かが経験したことを追体験することだが、この2年読書ができなかったのは、自分の価値観や感覚とずれすぎていて追体験できない書物に出会ってきたからだけなのかもしれない。だから、このままでいいし…っていうか私本読めてるじゃん!と、2000年以上前の知識人アリストテレスに救われてしまった。

最後に、私が今の所もっとも気に入っている形而上学の言葉を引用する。

経験もただ単に何らかの感覚を持っているだけのものと比べればいっそう多く知恵あるものであり、だがこの経験かよりも技術科の方が、また職人よりも棟梁の方が、そして制作的「生産的」な知よりも観照的「理論的」な知の脳がいっそう多く知恵がある、と考えられるのである。

まだまだ読み始めたばかり。これからの発見に乞うご期待

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