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自分という不思議:日本語の主語の多様性から考える個の不思議

唐突だが、読者の皆様は自分のことをなんと呼ぶだろうか?私、俺、僕、うち、もしくは自分の名前で呼ぶこともあるだろう。場面によって使い分けるという人もいるかもしれない。私自身、メインで使っている主語は「私」だが、家族や仲のいい人たちとの会話では場合によって自分のことを名前で呼ぶこともある。でも、どうやって主語の使い分けをしているのか、わからない。小さい頃は自分のことを名前でしか読んでいなかったのに、いつの間にか家族の前でも「私」といいう主語を使うようになっていた。

私は日本語の他に英語とスペイン語を話すが、それらの言語で主語が場合によって変わるなんてことは日常ではありえない。英語では自分のことを呼ぶときには絶対に「I」や「me」しか使わない。以前、アメリカ人の先生に日本人は自分のことを名前で呼ぶことがあると話したら、自分のことを名前で呼ぶのは王族とか貴族とか位の高い人しかしないよ、と驚かれた。スペイン語は動詞が主語によって変化するので主語の省略はたまにするが、主語の使い分けをしたことはない。

自分の知っている限り、場面ごとに主語の使い分けをするのは日本語だけだ。この記事をお読みの方の中に日本語と同じように主語を使い分ける言語を知っている方がいればぜひ知らせて欲しい。

この、不思議な主語の使い分けに気がついた時、私は日本社会においての個の捉え方が言語にも影響しているのではないかと思った。論文一つ書けそうなトピックなので、今回は日本人としての私の例を書き残しておきたいと思う。なお、今から説明することは私経験の以外のエビデンスを含んでいないので注意して読んでいただきたい。

まず、私が使う主語は以下の通りだ。


日常生活で一番よく使うのがこの主語。日常で接するほぼすべての人にこの主語を使う。私という主語を使い始めたのは小学校高学年くらいからだと思う。順番的には私が習得した3番目の主語。「私」の前に「うち」とが主語だった期間を経ている。

うち

現在は、「うちは〜」という言い方で私個人を指すことはほとんどない。「うちは〜」という場合は自分のコミュニティーのことを説明する時、なのでコミュニティー全体を表す主語=私たちというニュアンスで使用。

例:うちでは食事の時にあまりテレビを見ないんだよね。(うち=家族)

先ほど私の説明でも触れたとおり、小学生の頃はうち=私自身というニュアンスで使っていたこともある。が、それは小学校の友達の間でのみ。「うち」という主語がなぜか流行っており、いきなりみんなうちという主語を使うようになった時期があった。うち=私自身というニュアンスで使ったことは一度もない。(うちと自分のことを呼ぶのは失礼、無礼に当たると思っていた。)

自分の名前

小さい頃はずっと自分の名前で自分のことを呼んでいた。が、小学校で遊び感覚で自分のことを「うち」やら「私」やら呼ぶようになったことで今では家族との会話でしか使われない。また、家族の間で自分の名前を主語として使用する場合も限られている。傾向として「これ誰の?」ー「(自分の名前)の!」「どれが(自分の名前)のやつ?」など自分の所有物を示す時に自分の名前を使うことが多いようだ。また、「(自分の名前)はどう思う?」と家族から聞かれると「(自分の名前)は〜」と答えることが多い。

パートナーから呼ばれているあだ名

これはここ2年ほど付き合っているパートナーとの間でしか使わない主語。いつからそのあだ名になったのかわからないし、主語として使うようになったのかも覚えていない。しかし、恋人と話す時は「私」や自分の名前よりもあだ名を主語とすることが多い。真剣な話をする時は「私」を使うことがある。

自分

文章を書く時によく使う。考え方など、時間が経ったら変わってしまうようなことに対して自分と使うことが多い。「自分は〜と考えている」「自分としては〜だ」など。「(今の)自分は」っていう感じかもしれない。名前や職業など、生まれつき持っているものやよほどのことがなければ変わらないことには「私」を使う。話し言葉ではあまり使わない。

今考えただけでも、私は5つの主語を持っている。これが無意識のうちに脳内でスイッチされているのだから不思議だ。たまに、家族とばかり話していて、切り替えができず、その流れで友達と話した時自分の名前が主語として出そうになっていいよどむ時がある。しかし大体の場合は気がつかないで使い分けている。

自分の使っている主語を分類して思ったのは、私は「誰に対して」話しているのかということをすごく意識している点だ。「誰に対して」話すかで適切な言語は変わってくる。例えば、小学校の時は「うち」という主語が家族間で使うには不適切だと思っていたし、パートナーとの呼び名をパートナー以外と話す時に使うことはない。誰に対して話しているのか、もしくは、話している相手から自分がどういう存在として見られているかが主語の切り替えに大きく影響している。

ちなみに面白いことに、パートナーと英語話す時、日本語で話している時と距離感が違う。もちろん、英語はお互いにとって母国語ではないのでボキャブラリーや表現方法が足りず、日本語ほどスムーズな会話ができないというのも理由だと思う。しかし、英語で話していると、日本語で話す時より距離が遠くなったような気がする。なんというか、安心感がないというか、赤の他人と話しているような気がするというか…。

自分がどう見られているのかを気にする傾向がある=仲間意識が強いとも言えるかもしれない。日本は欧米諸国、特にアメリカと比べて自我よりも集団意識を尊重する文化圏と言われているので、それも言語表現に影響しているかもしれない。ではもし、他の文化圏で日本のように集団意識を重んじる場合、その言語にも主語の使い分けがあるのだろうか?逆に主語の使い分けがある文化圏は集団意識を尊重しているのか?そもそも主語の使い分けがある言語は日本語以外の存在するのか?疑問は募るばかりだ…。

読者のみなさまも、自分お主語をどのように使い分けているか、ぜひ考えてみてほしい。上記の私の例に当てはまらない主語の使い分けをしている人ももちろんいるだろう。主語の使い分けがどこから来ているか考えることで自分の文化や経験を分析する1つのきっかけになるかもしれない。

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