青春したかった、あの頃(小中学生編)

いわゆる『青春』な感じの部活動に所属した試しがない。

初めての部活は、小学生の頃。
高学年になると、部活というものに所属しなくてはならなかった。
とは言え、中学生での部活のための練習的なもので、活動曜日・時間も学校側で指定され、別段何かの大会に出場したりすることもない。
他クラスや他学年の人と一緒に何かをする、ということに重きを置いた活動だったような気がする。

中学生になり、最初は憧れの吹奏楽部に入部した。
楽器の知識も何も無かったし、経験も無かったけれど、私が通っていた中学校の吹奏楽部は市内でも少し有名で、キラキラした部活だった。
入部したはいいものの、やりたい楽器の担当になれなかった。
自分の希望の楽器を3つ程挙げて部長に提出し、本人の経験の有無や、そのパートの空き人数、楽器の数などを考慮して先輩が振り分けるのだが、明らかに贔屓もあったし、見た目などで判断されているところもあった。
可愛い子、派手目な子は花形のパートの先輩が『この子はウチね!』と取り、地味な子や、ふくよかな子は地味な楽器に振り分けられていた(地味な楽器が嫌とか、そういう話ではない。ただ、明らかに見た目や雰囲気でパートを決められていたのだ)。
私は後者であった。
今でこそ『カースト』という言葉が普通に使われるようになっているが、私が中学生の頃はそんな言葉はなかった。
ただの差別であった。
このパート分けで、私の中学3年間の在り方が決まりそうな気がする…そう本能的に感じて、1週間で退部した。


次に入部したのは、柔道部であった。
単に、自分が経験者であったこと(と言っても習っていたのは小学1~2年生の2年間である)、柔道なら運動音痴の私でもある程度できるので、ダイエットがてらやろう、という理由だけであった。
先輩の話や、状況を見る限り、吹奏楽部よりユルいし、先輩後輩の仲もよさそうだし、のんびりやっていけそうだな、と思った。
しかし入学した年に、顧問の先生が変わった。
26歳の男の先生だった。
出身大学は天理大学。
柔道ガチ勢だった。
その前年までは、柔道未経験の英語担当の細身のおじさん先生で、名ばかり顧問だったのに、この年から急に『目指せ全国!』というマジな体育会系部活になってしまった。
しかもあろうことか、新入生の女子は私以外に3人いたが、その中で経験者は私だけ、女子の先輩は二人しかおらず、私は即戦力と捉えられてしまった。
入部して1カ月足らずで新人戦も待たずに団体戦のスタメン入り。
しかも女子の団体戦は、体重順で大将・中堅・先鋒が決まる。
先輩二人は小柄だったので、新1年生の私が大将になってしまった。
相手は私より15キロ近く大きい3年生だった。
捨て駒同然だった。
日々の稽古も、顧問が変わって以来、厳しさを増すものとなった。
走ることが嫌いな私は、校外走がないって聞いたから入部したのに。
毎日走らされた(と言っても、バスケ部やバレー部の半分も走っていないけど)。
ウォーミングアップより、クールダウンの方がキツかった。
腹筋、腕立て、バーピージャンプを一人10カウント×人数分。
(ex.その日の部活動参加者が10名だったら、一人10カウント×10人=100回。各種目100回ずつである)
これがクールダウンと言えようか。

この頃の私の食生活は、朝、自宅で朝ごはんを食べ、お昼は学校でお弁当(野球部の男子が食べそうなデカい2段の弁当箱だった)を食べ、放課後は学校の隣のパン屋さんで割引になったパンをふたつと、500mlの紙パックのコーヒー牛乳やリプトンのレモンティーにストローを差して飲み、自宅に帰ってからは普通に夕飯を食べた。
思春期の女の子がこんなにバクバク食って、よく太らなかったなと思う。
何なら、3カ月で5キロ体重は減っていた。
それほど柔道部の稽古がキツかった。

そして結局、私は入部から3カ月、新人戦を待たずして退部したのであった。
それからは中学では部活には入らず3年間を過ごした。
担任の先生には、何かを見抜かれたのか、中2になると生徒会への立候補を勧められた。
小学生の頃、児童会をやっていたこともあって、悪くないなと思い、勧められるまま立候補した。
そして卒業するまで私は生徒会で、3期連続当選を果たし、書記→議長→副会長と上り詰めたのであった。
私にとっては生徒会の活動の方が部活動のようなものであった。

高校生の頃の部活は、それはそれは充実したものであった。
それについてはまた次回。



#部活の思い出 #吹奏楽部 #柔道部 #中学校時代

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