「推し」とはピーターパンであり、もう一人の自分である。
妄言からはじまったこの記事。
何を言っているかというと、「推しのいる生活」は尊いということである。
違う、そうじゃない。
この記事は、久保(川合)南海子著『「推し」の科学』の感想文である。
最初にamazonにある説明文を貼り、用語の説明のあとに感想を述べたいと思う。
このプロジェクションというのは、見えた・聞いたなどの情報と、自分の中で意味づけした心理状態とを重ね合わせる心の働きをいう。
ちょっとよくわかんないってなるので例を。
・茶碗を出されて、最初はどこにでもある茶碗と思って扱っている
・途中で差し出した人が「これ、20万円したんです」と言う
となったときに、同じ茶碗という情報でも、高級という意味づけがされることで急にありがたく感じたり、恐ろしくて片手では持てなくなってしまう。
他にも、著書では「幽霊の正体見たり枯れ尾花」を用いて解説している。
単なる枯れ尾花を見ても、暗いところで揺れ動いているのを見たときに、「あれは幽霊だ!」と自分の中で意味づけしてしまうことも同様にプロジェクションの働きである。
つまり、対象に自分の中で意味づけすることがプロジェクションの肝と考える。
感想
まず、この本のタイトルを知ったときに、「推し」と「科学」という一見かけ離れたものをどうくっつけるのかに興味があった。
加えて、ここ数年よく聞く「推し活」。あまりにも使われすぎて若干忌避している用語であったが、この本で「なぜ人は推すのか」という僕の疑問を晴らしてくれるのではないかと思い手に取った。
最初に出てきた「プロジェクションサイエンス」というワード。専門書とかで読んだら絶対に小難しく説明しているだろうが、この本はタイトルのキャッチーさからわかる通り、内容もサブカルチャーを例にしており、プロジェクションとはなにかを非常にわかりやすくしてくれている。
しかし、随所に学術的な内容がちりばめられており、最後には参考文献も載せてあるので、筋の通った良本であるのは間違いない。
そして、本書を読んだ感想としては、
「推し」とはピーターパンでもあり、もう一人の自分でもある
ということだ。
例えば「推し」がタレントだったとして、「推し」が出てくる番組やCM、雑誌があれば、可能な限りチェックするだろう。
その中で「推し」が、
「僕は○○というお店によく行くんです」とか、
「好きな料理は△△なんですよね」とか言っていたとする。
そうなったら、
(○○ってお店はどこだろう?行ってみよう!)
と、行ったことのない土地の店へ遠出するかもしれないし、
(料理は得意じゃないけど「推し」の好きなものは作ってみたい!)
と、普段しない料理をするかもしれない。
この、行ったことのない土地や普段しない料理というものは、自分ひとりでは選ばなかった行動である。
しかし、「推し」が発言したことで、いままで興味のなかったものが『「推し」が好きと言っていた○○』という意味づけがされることで、その人の中で付加価値がついたのである。
そうして、自分の中の世界観が「推し」によって広がっていくのである。
これはまさしく、自分の今までの住んでいた世界から、ネバーランドという今まで触れたことのない世界へと連れて行ってくれるピーターパンと同じではないか。
……………………ということにしておこう。
「推し」の周辺用語として、「沼る」という言葉がある。
ある「推し」を応援するとしよう。応援は身体を伴った行為であり、身体のはたらきが心理面に影響を与え、より「推し」が好きになっていき、また応援して……。この無限循環によりどんどん「推し」のことが好きになっていく。
そして、この原理の一つにミラーニューロンが関わっている。
「推し」を応援していく中で、「推し」と一体化することでより、共感がうまれてくる。つまり、「推し」が喜ぶ姿をみて自分も同じように喜びの感情を共有するのだ。
なので、「推し」の活躍を見て、応援している自分もまた活力をもらうことができる。「推し」の頑張りを通して、自分もまた頑張ろうと思える。そんな経験はあるのではないか。
しかし、それは「推し」が自分を応援したわけでもないし、頑張れと言ってくれたわけでもない。単純に「推し」の活躍を見て自分の心の中で意味づけをしただけである。
つまり、鏡に映った自分(推し)を通して、自分のこころにある問題や感情に働きかけたのである。
物語・絵画・宗教など、これらは人々の暮らしの中で潤いや希望、悲喜こもごもの感情を揺さぶる、こころを豊かにするものである。これらすべてが、人々の意味づけによって現わされたものである。
とするならば、「なぜ人は推すのか」という問いに対しては、
「推す」という積極的・能動的にかかわる行為は、生きる意味付けを多彩にしてくれるからと答えられるだろう。
翻ると、無関心でいること、自分の中の価値観で閉じこもってしまうことは世界を色あせさせてしまい、ある意味生きる目的をなくしてしまう行為ともいえる。
自由な発想、創造といった積極的な行為を行うには、自分の身体という最小単位が必要条件となる。しかし、痛みや苦しみに頭が占有されていれば、積極的に外部と関わることは難しい。
なので、その状態から解放されるためにも、まずは自分の身体に耳を傾ける時間を作っていくことが、心を前向きにさせる第一歩と考える。
最後に
後半は筆が乗ったため、本文に書いていない飛躍的なことを感想として書いているが、著書の中で、芥川賞の選考委員である島田雅彦さんは、文学に対して以下のことをすすめている。
「疑問を抱き自由に誤読する」
なので本書を読み、こういった曲解記事を書くことはすすめられた行為なので、今後も勇んで行っていこうと思う。
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