【週刊誌記者という「世界」#2】~28歳の破局と青天
彼女との別れ
「もう別れたほうがいいと思うんだよね」
僕は彼女に切り出した。
場の空気が凍りついた。運命的な出会いから交際することになった恋は不自然な形で終わろうとしていた。
二人の付き合いは2年あまりになろうとしていた。年上のA子は僕にいつも優しい言葉を言ってくれる。
「え? なんで。無職だから? なら私も会社を辞めるから一緒に就活しようよ」
今振り返れば、僕はこのとき彼女の言葉に甘えればよかったのかもしれない。しかし、このときの僕はそれが出来なかった。
涼し気な見た目とは違いすごく愛情深いA子の言葉は、自分を更に弱くしてしまうもののように思えた。
28歳当時の僕は、サラリーマンを辞めたことを重く捉えていた。彼女は30歳になろうとしていた。結婚を強く意識せざるえない年齢の女性と、無職のままの僕が交際を続けるわけにはいかない。
A子は美しく素敵な女性だった。営業として全国を走り回るキャリアウーマンであり、社長の側近として確かな地位を築いていた。彼女は敏感に僕の劣等感を察してくれて、「自分も会社を辞める」と言ってくれたのだと思う。その優しさに心がより痛んだ。スーツ姿の彼女と比較すると、ネクタイを棄てた僕は何者でもない。
「ごめん。だめなんだ」
僕は項垂れながら彼女の家を出た。
「どうして? 理解できないよ」
A子は何もない僕を追ってくれた。路上で話し込んだ。
「ごめん。今のままの自分では駄目なんだ。僕が何がしかの人間になれたなら、A子にもう一度交際を申し込みたい」
僕は再び背中を向けると夜道を歩きだした。車のヘッドライトが行きかう道をトボトボ歩く。街灯に照らされた自身の影が歩道に浮かび上がる。
全てを失ってしまった。惨めな気持ちしかなかった。
月収15万円
28歳にしてフリーターになった僕の収入は惨めなものだった。飯田橋の編プロでバイトしながら、水道橋で編集の勉強を送る日々を送っていた。月収は15万いくかいかないか。授業料もあるから可処分所得はさらに低い。
本当はA子に「僕のことを待っててほしい」と言いたかったが、とてもそんなことをいえるような目算も希望もない状況だった。
編プロでは「情報誌ぴあ」の編集をした。編集といってもアンケートをばら撒いて、情報を整理するだけの仕事である。ゼネコンが労働集約型産業と前に語ったが、編プロの仕事はゼネコンよりいい加減な労働集約型産業だった。編集部に泊り込んでひたすら「住所」「電話番号」「イベントの特徴」などを打ち込み整理だけをする。社長は元週刊誌記者を名乗っていた。
しかし社長はほとんど仕事をしない。いちばん最初に見た週刊誌記者という職種の人は、正直“胡散臭い”としか言えない人だった。
社長は親しい編集者と飲み仕事をもらってくる。情報誌というより広告ページに近いデータだけのページを作るという仕事、徹夜続きの激務をこなすのは社員たちだ。社員はみな若く、「編集者」という肩書や夢だけを与えられ頑張っていた。しかし仕事の実態は編集者とは程遠くキーパンチャーみたいなものだった。僕は前職で情報整理には慣れていたので、それなりにこなすことが出来たが、決して面白みを感じる仕事ではなかった。
僕は「ジャーナリズム文章教室」で原稿を書いているうちにどんどん、書くということに対する魅力を感じ初めていた。
鎌田さんはこう言った。
「書くということは、自分探しなんだよね。自分を知るために書くことがあると思うんだよなー」
そうか、自分を客観的に見ることが出来る作業が「書く」なんだな。僕はあることを書こうと決意した。
老編集者の心躍る言葉
「ジャーナリズム文章教室」には鎌田さん以外にも、複数の講師がいた。
ノンフィクションライターの野村進さん、編集者の井家上隆幸(故人)さん、他にも「小説家」のかたや「アナーキスト兼作家」(!)の方など多士済々だった。みな強烈なキャラクターのかたばかり。
当時70才を超えていたであろう編集者の井家上隆幸さんは言葉が鮮烈なかただった。井家上さんが講義で口にしたいくつかの言葉を今でも覚えている。
「いまの原稿を書き終えて原稿を棄てろ。そこから書くんだ」
彼は生徒の原稿に一通り目を通すと冷ややかにこう言い放った。つまりは、勢いで書いた原稿で考え付くような結論は誰でも考え得る。それから更に思考を深めて原稿を書け、ということだったと思う。
「ジャーナリズムとは、個人で世界と対峙することなんだ。世界を敵に回す覚悟を持つ必要がある」
この言葉も印象的だった。
僕は思わず「かっこいい…」と思ってしまった。限りないロマンと厳しい覚悟を内包した老編集者によるジャーナリズムの定義。ゼネコン時代は僕の意見が聞き入れられることはなかったが、ルポライターやジャーナリストなら意見を言えるかもしれない。これは楽しそうだとワクワクしてしまったのだ。
井家上さんが口にしたこの言葉は「真理」であると今でも思っている。
発言は常に個人の責任においてすべきものだ。”組織ジャーナリズム”という言葉にはいろいろな矛盾が含まれている。複数の人間の意見が100%一致することはありえない。僕は後に週刊誌記者となり組織記者となったが、週刊文春が組織ジャーナリズムかと言えばそれは違うと思う。記者は看板を背負って世界と対峙しているだけあって、どこまで行っても文春記者の赤石でしかなく、ジャーナリストとしての赤石の意見と雑誌記事は必ずしも一致しない。
組織ジャーナリズムという言葉は、国家と同じで形なきものだ。あるはずと信じられている"幻影”のようなものなのだろう。ゼネコン時代の経験からも、組織とは個人を抑圧する性質があると僕は思っているから余計そう感じるのだろう。
閑話休題ーー。
編集やデザインの勉強も卒業するためにきちんとやっていたが、いつしか僕は「ジャーナリズム文章教室」がいちばん面白いと思うようになっていた。
僕はゼネコン時代の自分を振り返ろうと思い、「僕たちの旅」という小説を書いた。現場の話、粉飾決算の話など書けることを全て書いた。
小説家のかたの授業では添削をしてもらえた。どのように添削されるのか興味があったので原稿用紙300枚くらいのものを書いて提出した。
原稿用紙が戻ってきた。
アマチュアから始める
「添削不能」
赤字で書かれていたのはアドバイスではなかった。まさかの「評価なし」、だったのだ。でも、自分の中には不思議な納得感があった。これで過去とはおさらばだ。おそらく僕には小説家の才能もないだろう。
僕はルポライターか記者としてやっていこう、改めてそう決心した。
何人かの受講生と新聞を作った。まずはアマチュアルポライターとして取材して記事や評論記事を書いて、ジャーナリズム文章教室の生徒に配ったりした。じょじょに書きたい人が集まってきた。
湘南からきたY氏、エリートのH氏、一ツ橋大学を卒業してゲーセンでバイトしているK氏と僕の四人で、集まっては新聞を作ったり。興味のままに探検に出かけたりした。ある意味、大学時代よりも楽しい第二の青春期だった
「何か面白いことをしたい」という気持ちでいると、楽しい人生が送れるのかもという予感が芽生え初めていた。
「ライターで食えないもんね」
大学生の受講者は徐々にジャーナリズム文章教室からフェードアウトしていった。僕としては「こんな楽しそうなのに」と思っていたが、選択は個人の自由だ。とりあえず行けるかどうか、「やってみっか」と思っていた。
30歳のとき「ジャーナリズム文章教室」のOBで編集者をしているTさんからこう連絡がきた。
「赤石さん、そごうを取材してみない?」
「そごう」はかつては日本一の百貨店だった。だが、2000年7月12日、2000年7月12日に経営破綻をしていた。かつて売上高日本一まで上り詰めた百貨店は、駅前大量出店と放漫経営が裏目に出て自主再建断念に追い込まれまれていた。
会社の不条理に関心があった僕は即答した。
「やってみたいです!」
(つづく)
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