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連載 週刊誌という「世界」

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常に賛否を浴びる週刊誌というメディアではどのような人が働いているのか。週刊誌記者を18年やりフリーに転じた筆者が体験的週刊誌論を執筆していきます。週刊誌というメディアが存続してい…
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#週刊文春

「週刊誌」という世界#12 週刊誌は世界で闘えるか

晴天の霹靂 2010年10月、僕は編集部のデスクでメモをまとめていた。既に編集部から発注…

週刊誌という「世界」#11 スキャンダルという危険な罠(前編)

「彼女が議員会館にいるから合流して」 夕方17時、新聞記者からこう電話を受けた僕は衆議院…

週刊誌という「世界」 #10 芸能スキャンダルと港区女子の物語

ガーシーchのような暴露系YouTubeに注目が集まっている。その内容を見ると、芸能人と夜遊び…

週刊誌という「世界」#9 スター記者と週刊誌的「正義」の話

「失礼します!」 鉄の扉を開けると、そこには喧嘩の強そうな先輩記者がいた。 「おう座れや…

移籍の流儀を考えてみた

最近、移籍について考えさせられることが多い。 会社を変わる、記者であればメディアを変える…

週刊誌という「世界」 #8 ”狂った季節”のはじまり 新章:週刊文春編

僕にとって2006年は”狂った年”だった。 年明け早々の1月16日、東京地検特捜部が「証…

2006年の週刊文春 エース記者の卒業 (週刊誌という世界 #番外編)

週刊文春(10月14日号)の右トップ記事「岸田政権を壊す男 甘利明のウソ」という記事を読んだ。この記事は週刊文春では稀とされる所属記者の署名記事であり、甚野博則+小誌取材班というクレジットが掲載されていた。 2006年移籍組甚野記者は年内で週刊文春を卒業しフリーランスになるという。青春時代が終わろうとしているんだな、僕はそう感じながら記事を読み終えた。 甚野記者と知り合ったのは2006年のことだった。当連載「週刊誌という世界」でこれから書く予定である、僕が週刊文春に移籍し

週刊誌という「世界」#7 任侠と人情の間~FRIDAY編 最終回

女性は「失礼します」と言った 「飯島秘書官について取材したいので、記事の詳細についてお聞…

週刊誌という「世界」#6 毎日の張込みで学んだ"仕事訓"

首相秘書官を直撃飯島秘書官の記事は独走スクープという形で話題となり、フライデーは数週間に…

週刊誌という「世界」#5 「初スクープ」は突然に――

僕が記者になった少し前の時代から、週刊誌は斜陽の時代を迎えていた。 「フライデー」は最盛…

週刊誌という「世界」#4 ライターから記者へ転じた”理由”

「ジャーナリズム文章教室」同様に、ノンフィクションライター講座」も講義後は講師と生徒を交…

週刊誌記者という「世界」#3 「憂鬱」な合コンと、ノンフィクションの「恍惚」

”アジト”のメンバー 「ジャーナリズム文章教室」で仲良くなったメンバーはみな個性的だった…

【週刊誌記者という「世界」#2】~28歳の破局と青天

彼女との別れ「もう別れたほうがいいと思うんだよね」 僕は彼女に切り出した。 場の空気が凍…

【週刊誌記者という「世界」 #1】~ 僕が会社を辞めた理由

僕は元サラリーマンで、転職組の記者だった。32歳から飛び込んだ週刊誌という世界は、僕にとって第二の青春ともいえる時代を過ごすことが出来た場所だった。週刊誌記者は世間からは”金のためにやっている賤しい仕事”と思われるのかもしれない。でも僕は「違う」と言いたい。 そこには本物のプロがいたし、色々な思いを抱えながら闘っている記者がたくさんいた。週刊記者を卒業したいま、改めて僕が経験してきた週刊誌という世界を振り返ってみたいと思う。 「独立したい」先輩サラリーマンの言葉#1は僕が