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【週刊誌記者という「世界」 #1】~ 僕が会社を辞めた理由


僕は元サラリーマンで、転職組の記者だった。32歳から飛び込んだ週刊誌という世界は、僕にとって第二の青春ともいえる時代を過ごすことが出来た場所だった。週刊誌記者は世間からは”金のためにやっている賤しい仕事”と思われるのかもしれない。でも僕は「違う」と言いたい。

そこには本物のプロがいたし、色々な思いを抱えながら闘っている記者がたくさんいた。週刊記者を卒業したいま、改めて僕が経験してきた週刊誌という世界を振り返ってみたいと思う。

「独立したい」先輩サラリーマンの言葉

#1は僕がサラリーマンを辞めた理由から始めたい。

春風がふくなか僕は先輩と共に休憩をとっていた。埼玉県栗原は関東圏とは思えない自然豊かな土地である。

「建築をやる以上、俺は独立したい。腕一本で勝負したいんだ。そしていかに建築が工業化出来るのかその可能性を見届けたい」

O先輩は煙草をふかしながらこう熱く語った。

O先輩はスポーツマンで頭が切れる人だった。その情熱的な仕事ぶりは下請けの職人さんにも支持されていた。かっこいい先輩だった。

労働集約型産業である建設現場には多くの非合理がまだ残っていた。長時間労働、どんぶり勘定、品質の不安定さーー。そうした労働環境の中で、いかに合理性を目指すのかはあらゆる若手社員が一度は考えるテーマだった。先輩はそれを工業化に見出したいと考えていた。つまり全てを工事現場で作る形ではなく、ある程度工場で部品を製造し現場で組み立てるという合理性を追求した方式である。

「やっぱ独立しないと駄目でしょ」

O先輩は青空を見上げながら、「ふっー」と煙を吐いた。

僕はゼネコンF社に入社して5年目の若手社員だった。購買担当として埼玉県の栗原にある工場建設現場に来ていた。事務所は現場監督のM氏、主任のOさん、そして購買担当&原価管理担当の赤石という三人で切り盛りしていた。みんな20代だ。総工費10億円という現場を若者で回すという仕事に僕はやりがいを感じていた。

しかしM氏もO先輩はそれに満足していなかった。より先を見据え、いつか独立をしようという野心を持つ技術者だった。

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人生の無情


赤石家はサラリーマン一家だった。父親は大手電機メーカーの海外事業部の幹部だった。南アフリカで僕が幼少期を過ごしたのはそのためだ。父親はその後、ロンドン駐在員をし、サウジアラビ支社の社長をし、その後、日本に帰国した。しかし僕が大学生だったときに、出張先の中国で倒れた。その半年後、父は息を引き取った。

病床の父は僕にこう言った。

「これからが収穫期だったのに悔しい。本当に悔しい。収穫期のための家族を犠牲にして頑張ってきたのに、情けないーー」

父は30年余りの会社員人生を疾走してきた。でも、その努力と情熱は必ずしも報われるものではない。父の死をきっかけに、僕はそうサラリーマン人生について悲観的に捉え、達観するようになっていた。

ゼネコンに就職したのも「人生を適当に過ごす」ためだった。何の目標もなかった。

工事現場の栗原周辺は田園地帯が広がる。風が心地よいからか、煙草がうまい。先輩の話を聞きながら、僕はフィリップモリスに火をつけると青空を見上げた。

(俺、何か目標あるのかな?)

 心のなかで自分に問いかけた。

草が風に揺れる音が心地いい。何かこのままじゃいけないという気持ちが芽生えてきた。

「よし、点検に行くぞ!」

O 先輩が吸い殻入れに煙草を放り込むと歩き出した。目標を語れる人は魅力的だ。僕がゼネコンを退職する日を真剣に考え始めたのはこの日からだったーー。

企業に正義はあるのか?


僕は建築技術者ではなかった。

ならばどんな目標が持てるのだろうか。転職雑誌をめくりながら思案する日が続いた。よく読むと出版社なら割と年齢が高くても募集があることがわかった。出版でもやってみるか。そう考えるようになっていた。


会社を辞めようと考えた理由はもう一つあった。先に述べたように僕は購買担当(資材の買い付けや下請けへの発注業務)とともに、原価管理を担当していた。

当時、自社の経営は火の車だった。

上司の方針は、「工事の赤字分は来期に回せ」というもの。理由は「株価維持のため」だった。

「そんなことをしても利益にならないし、いつかバレますよ」

ある日、僕は上司に食ってかかったことがあった。正論を言っただけではなく、通常業務だけではなく、株価維持のために仕事を終えてからさらに二重帳簿を作らなくてはならないという激務に非合理性を感じていたからだ。つまりは仕事が多すぎることへの不満が根底にあった。

「返事はハイだけだ。お前みたいな若い社員はまだ安全靴についたドロなんだ、反抗するな。やれ」
上司は強硬に言ってきた。安全靴は工事現場にいるものが履いている鉄板入りの靴のことである。備品にも満たない存在。つまりは、僕にはまだ発言権はないということだ。

「でも」と言いかけたが、上司は「返事はハイだけだ」と言葉を遮った。

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本社ではいつも深夜に幹部が集まり秘密相談が行われていた。どう帳簿を作るかの打ち合わせである。つまり粉飾の打ち合わせなのだ。

上司も経理部長も人柄は素晴らしい人たちだった。だが、一度会社の方針が決まると、平気で不条理を行う。それが組織というものなんだと僕は実感せざるえなかった。

”自分が正しいと思うことは、間違っているのか?”

心のなかでは反芻が続いた。しかし仕事では上司に従わざるえない。上の指示に従っているうちに、僕が担当する5〜6の現場だけで10億円近い“隠し赤字”が出来てしまった。赤字は架空の工事現場予算に付け替えた。

いわゆる“飛ばし”である。

僕は不正義がまかり通る仕事、そして忙しすぎる日常に絶望していた。それが辞めようと思った第二の理由だった。


ジャーナリズムとの出会い

建設業簿記の資格は持っていたがゼネコンに再就職する気はなかった。つまり退社時の自分は何の目論見もないまま会社を去ったのだ。

バイトをしながら、とりあえず出版社を目指してみようかと適当に考えていた。

まず基礎知識を身につけようと思い日本エディタースクール(水道橋)に入学した。編集やデザインなどを総合的に学べる出版専門学校だった。

フリーターや大学生に交じって講義を受ける日々は新鮮だった。クラスメイトのほとんどが、5歳以上年下。みな「何か」を得ようとする気持ちは同じだった。

様々な講義を受講しているなかで、一つだけ風変りな先生がいた。「ジャーナリズム文章教室」というその講義は、髪の毛がモジャモジャな小柄おじさんがボソボソ話すだけ。文章教室でありながらテクニックの指導はまったくない。ジャーナリズムという冠がついているのに、それについても特に指導もない。

「街」とかのテーマが与えられて、生徒はそれについての文章を書き、みなで意見を交換するだけの講義だった。

「このカリキュラム意味あるのかな?」

大学生の受講生はこう首をかしげていた。しかし僕は頭がモジャモジャな不思議なおじさんに興味を抱くようになっていた。

「愛は大事だよねー」

モジャモジャおじさんは、そう講義後の飲み会の席で言った。

偉ぶるでもない、フラットな語り口が新鮮だった。サラリーマン時代の上司にはいないタイプの大人だった

頭がモジャモジャなおじさんは、鎌田慧という名前だった。当時の僕はその名前を知らなかったが、鎌田慧さんは言わずと知れたルポライターの草分けといえる人物だ。『自動車絶望工場』、『反骨 鈴木東民の生涯』、『六ヶ所村の記録』など多くの名著を持つ。

僕は初めてルポライターという職業があることを知り、鎌田さんの著作を集めて貪るように読むようになっていた。

(つづく)

こんな本を書いております


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