"あの店"の炒飯

子供の頃、家族で行く外食が苦手だった。

内弁慶で結構な恥ずかしがり屋だったこともあり、いわゆる「家族の食卓」というものを外出先で広げることに、幼いながら謎の抵抗感があった、のだと思う。あの頃はそんな気持ちを言語化する術なんて持ち合わせていなかったので、良かれと思っての「今日はお外にご飯食べに行こうか」という両親からの提案をことごとく却下する幼い娘に父も母も疑問を抱いたのではないだろうか。共働きで、家事の負担を軽減するためにも外食がいいな〜と思った日は1度や2度ではなかっただろうに。

そんな外食を拒否しがちな幼い私にも、1箇所だけ、心を許した飲食店があった。

少し小ぶりなその店内は、中華料理屋のトレードマークなごとく少し油で滑る床と、ちょっとペタつく4人掛けのテーブル席が2つと、カウンター席が8つほど並んでいた。カウンター席もテーブル席も備えられた椅子は年季が入っていて、カウンター席の1番奥には、たびたび野球中継を映す小さなテレビが備わっており、丸見えの厨房(キッチンと言うよりは厨房の名が相応わしい)では、ごま塩頭のおっちゃんが1人で鉄鍋を振るう中華料理屋さんだった。いわゆる地場に愛される飲食店というやつだ。頬を赤く染めたおっちゃんたちがビールを片手にテレビを見ながら中華料理を食べる、そんなお店だ。


おしゃれな照明もお子様ランチもなかったけれど、ここで食べるチャーハンがこの世で一番美味しかった。保守派を地で行く私は何十回、何百回と通ったこの店で、ほとんどチャーハンしか食べていない。壁一面に貼られたメニューは数多くあったのに。ただただチャーハンだけをこの店で食べたのだ。「他のメニューにも挑戦しなよ」と頑なにチャーハンを頼み続ける娘に母がたびたび勧めるも余計なお世話だと言わんばかりにチャーハンを頼み続けた。チャーハン以外はそのうち食べようとか、そんなことを考えていた気がする。なぜかこのお店はこれから先もずっとこの場所にあって、わたしもずっとこのお店に食べに来続ける、と疑いもしなかった。

厨房で鉄鍋を振るお茶の見事な手さばきは何度見ても飽きなかった。最後の仕上げで、出来上がったチャーハンをお皿に盛るとき、大きな丸いおたまを使って丸く仕上げられる過程は、わたしの心を何度もくすぐった。卵はちょうど良いぐらいの大きさで、たまに少し大きな卵のかたまりがあれば、そっと避けて、最後の一口用に取っておいた。細かく刻んだナルトの食感がたまらなく好きだったのだが、以降ナルトの入ったチャーハンを提供するお店はあまり見かけない。細かく刻んだチャーシューを噛むと、お肉の味とともに、運が良ければ脂身にあたる。肉の脂身を好んで食べていた私には、このラッキーは欠かせなかった。

おっちゃんのチャーハンは、おっちゃんが疲れているときに塩っけが増えて、クセになる美味しさになるんだ。と自慢げに父が言っていたが、別におっちゃんと話したことなんて1度もないはずだし、顔見知りと言うほど仲が良かったわけでもない。定期的に訪れてはいたが、常連と言えるほど通ったわけでもないので、当時のおっちゃんも特別認識していたわけではないと思う。

残念ながら、お店の名前を覚えていない。高校、大学と進むにつれて家族でご飯を食べることすら少なくなり、外食はそれ以上にごくごくわずかとなった。あのお店に最後に訪れた日を覚えてはいない。実家を出てもうすぐ5年は経つのだが、わたしが家を出てからか、もしくはその前だったのか、そのお店はなくなってしまったそうだ。Google mapを開くと、お店のあった場所にはシャッターの降りた店の写真が残っている。もう食べれないとわかったが最後、たまらなく恋しくなった。

この企画を見た時、一番最初に思い浮かんだおっちゃんのお店の情報が、どこかに少しでも残っていないかと、覚えている限りの情報を詰め込んで調べてみると、食べログに1件だけクチコミが残っていた。「餃子が絶品。職人気質の強面だけど丁寧な物腰のおっちゃんが切り盛りするお店。たまに奥さんもお店を手伝っているようです。」そんなことが書かれていた。ああ、確かに、たまにおっちゃんの横で、小柄で朗らかなおばちゃんが餃子を出していたっけ。そういえば、綺麗なお姉さんも手伝っていた気がする。あの女性は娘さんなのかな、なんてことを父とこそこそ話していたこともあったっけ。

わたしだけではない、誰かもあのお店を覚えているのかもしれないと思った時、懐かしい、疲れた頃のおっちゃんが仕上げるチャーハンの味がした。

#おいしいはたのしい

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