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〈コンパクトシティ について 上巻〉

山形の広大な土地に、パラパラと人が住んでいる。
日本の広大な土地にパラパラと住民がいる。

人口が集中した街で勝手が良く便利な場所に住みたい人がいる。
閑散とした山奥で美味い空気と水を得ながら生きたい人もいる。

どちらも正解なのだから否定のしようがない。
がしかし、地球に住まわせてもらっている生命体の一部(人間)と考えるとどうだろうか。

人という生命体は、地球という揺籠に乗せてもらっている事を忘れてはならない。
なるべく地球に負担を掛けず、傷付けず生きなければならないことを考えなきゃいけない。

空気や水の綺麗な奥地で過ごしたいならば、電線やガス管、水道管などのインフラを犠牲にして生活する事を決意しなければならない。
逆に整備された下界に住むならば、ある程度の監視と窮屈さに耐えながら生活することを決意しなければならない。

そりゃ俺だって月山頂上の雲の上で澄んだ空気と高山植物に囲まれながら生きていたいさ。
続く峰と、無い雑音と、ゴマみたいに小さい街並みを見下ろしながら生きてみたいさ。

人間は便利を求めるが故、きっと「そこ」にも求め出すのだろう。
もしそんな理想を求めた人間にまでインフラを整備しようとすると、とてもお金がかかってくる。山の上まで電線や水道管を通すとなるとコストが尋常じゃないのだ。

文明が発達し進化を遂げた人類は、退化することができないという。
携帯電話を持たない生活に戻ることは出来るだろうか。
でも便利過ぎるものは捨ててプラマイゼロには近づけるかもしれない。

車での移動を止めることはできるだろうか。
でも余剰な便利を削れば、車から出る排気ガスをある程度容認できる世界まで持っていくことが出来るかもしれない。

小さいテリトリーに固まった人間生活が行われたら、人同士が近すぎて嫌になってしまうことも考えられる。
でも集約した街並みは、車を使わず歩いて買い物にも行けるし、小規模発電で賄える電力で稼働できるかもしれないし、一度インフラを整備してしまえば長い目で見ると今よりも維持費は安くつくかもしれない。

人間本意の考え方を一回少し忘れて、地球で上手に賢く生きていけたら、止まらない進化のベクトルはまた良い方向に流れていくかもしれない。

誰も住まなくなった土地は自然に還る、ただそれだけだし、歴史や文化は人間が繋ぐ限り消えやしない。

人口が増えない、むしろ星になっていく数の方が多い事情を鑑みると、分散されたパワーを一つの束でまとめた方が、より強いパワーになるのかもしれない。

こんな田舎だからこそ、割と本気で議論の余地はある筈。

残念だが、もう昔みたいに豊かで余裕のある国ではないのだから。
いきなりぎゅっとまとめるのではなく、人口の減数を見ながら、徐々に徐々にゆっくりと。

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