離島で自○未遂して閉鎖病棟に入り生活保護を受けた話
〈このnoteは私が沖縄の離島で自殺を図ってから生活保護を受給するまでの顛末を綴ったものです。〉
自殺を決めるまでの簡単な経緯
自殺を決意したのは2023年の2月のことです。その少し前から、私は地方のホテルで宿直スタッフの仕事を始め、休日は近所のお土産物屋でアルバイトもするようになっていました。これらはともに長期間定職に就けなかった私が社会復帰への一歩として挑戦したものです。
ただ予想通りというべきか、自分の感情コントロールの出来なさが災いして、前者の仕事は社員との不仲が理由でまもなく自主退職となり、後者の仕事も職場の雰囲気に馴染むことができないまま、結局2ヶ月ほどで自然消滅を迎えました。
その後、次の仕事が決まらないままホテルの寮を出たあとは西成のドヤに戻り、古いママチャリをレンタルしてUberの配達──起伏のある大阪の街を足がパンパンになるまで漕ぎ続けても日給は6千円ほどでした──に励んだりしたものの、体調が悪化するにつれてそれを続けることも難しくなり、私は自室に引きこもるようになりました。
ほどなく抗うつ剤・眠剤漬けの生活も復活します。そこからは希死念慮が再発するのもあっという間で、気がつけば自殺場所をストリートビューで探すことが唯一の心の安息となり、自殺の具体的なスケジュールを決めたあとは決行日を心待ちにして過ごすようになっていました。「ようやくこの生き地獄から抜けられるのか」と思うと少しだけ気が楽になったのを思い出します。
沖縄の離島で服薬首吊り
自殺場所を沖縄のマイナーな離島に定め、関西空港から那覇へ向かったのは春のはじめのことです。(この島を選んだ理由はふたつ、ひとつは「死体が発見されなさそうだったから」、もうひとつは「きれいな景色を見たかったから」でした。)
Amazonで注文しておいたロープを残波岬のホテルで受領し、試みに自室のシャワールームの手すりで首を吊ってみると、何度目かの試行の後に「頸動脈が圧迫されて頭がふわっとなる感覚」を掴みました。あとは本番当日、眠剤とお酒で恐怖を鈍らせてからひと思いに体重をかけ、目を閉じて10秒カウントするだけです。「今回はちゃんと逝けそうだな」と思いました。
同じ日に身辺整理も済ませました。スマホのデータはすべて消去し、服や本、その他不要な持ち物や思い出の品々──むかし入信していた宗教のペンダントや携帯式の仏壇、実家を追い出される際にアルバムから抜きとった幼少期の写真など──もその際に処分しました。実家を出て以来、昔を思い出すよすがとして肌身離さず携行してきたものでしたが、ほどなく自殺する私にはもう必要のないものです。
準備をひととおり終えたあとは何もすることがなくなり、フェリー予約日までの数日間は意味もなく国際通りを往復したり、ドンキホーテの前に置かれた水槽を泳ぐ魚を眺めたり、それにも飽きると市役所前のベンチに寝っ転がって夜まで音楽を聴いたりして過ごしていました。
*
当日、那覇から出発するフェリーで島に渡ったあとは鬱蒼とした林道をひたすら歩き続け、目当ての浜に到着した時にはすでにお昼をまわっていました。ようやくたどり着いた浜辺は想像とすこし違って──たとえば首を吊れそうな木が少なかったり、遠くの海上にダイバーたちの船が浮かんでいたり、正直期待外れな点もあったのですが、それでも離島の海はやっぱり綺麗で、あらためて「わざわざ来てよかったな」と思いました。(外国人の家族が海水浴をしているのを見た時はさすがにギョッとしましたが、しばらくすると誰もいなくなりました。)
浜の端っこの、周囲からちょうど死角になっている地点で私は手頃な立木を見つけ、その枝にロープを結んで腰を下ろし、西成の✕✕で✕✕したハルシオンとデパス2シートずつを紙の上に出して、それらをふだんは飲まないアルコールで、それも強めの日本酒4合で流し込みました。もちろん自分の意識が永遠に消滅することを思うと怖かったですし、かつてお世話になった方々のことを思い出すと悲しさで喉がつっかえましたが、現在の自分をとりまく、おそらく生きている限りは逃れられない惨めな窮状に比べたら、そんな恐怖や悲しみなど取るに足らないものです。
その後は処方箋袋などを海に流し、ロープの輪っかに首を通して、波がチカチカ輝きつつ寄せたり引いたりしているのを眺めながら眠気を待ったのを覚えています。
失敗、駐在所で一夜を明かす
気がつけばあたりは真っ暗で、私はふつうに浜辺に倒れていました。手先を動かしてみると、ロープをかけたはずの枝が根元から地面に落ちているのがわかり、そこで「自分は死ねなかった」 ということはすぐにわかりました。
ひとまず集落に戻って態勢を立て直そうと起き上がったのですが、猛烈な目眩で歩くことができず、仕方なく四つん這いで浜を進みます。吐き気も壮絶で、身体を動かすたびにものすごい量の胃液を吐き、なんとか1m進んで、また胃液を吐きました。この時点で集落に戻るのは不可能だとすぐに悟りました。
そしてあろうことかこのとき(後日検索履歴を確認したのですが)私はスマホで「○○島、警察」と検索し、一番上に出てきた番号に電話をかけていたのでした。
駐在所の方とどんなやりとりをしたのかは覚えていないのですが、浜辺でしばらく横になっていると今度は救急隊の方から電話がかかってきて、電話口から「いまそっちに向かっているから、到着まで自分と話をしようね」と優しい声が聴こえてきました。
「もうすぐ到着だよ。ためしにクラクションを鳴らしてみるよ。ほら、聞こえたでしょう?」(鬱蒼とした森のむこうから確かにクラクションの音が聞こえてきました)
「今夜は曇っていて星空が見えないけど、波の音でも聞きながらゆっくり休んでいてね」
そんな優しいお言葉に耳をすませながら待っていると、やがて遠くに救急車のライトが見え、降りてきた隊員の皆さんによって担架に乗せられたあと、私はそのまま診療所へと運ばれました。診療所にはお医者さんと看護師さんがいらっしゃって、こちらを気遣いながら様々な手当てをしてくださいました。
(「私のためにこんな夜中に働いてくださっているのか」と思うと申し訳なさで居た堪れなくなりましたし、おまけに点滴を受けるとひっきりなしに小便が出て、それを看護師さんが毎回処理してくれるので一層申し訳なさが募ります。看護師さんは「仕事だからね」と笑ってくださいました。)
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容態が落ち着くと、島の駐在所のお巡りさん(Aさん)が診療所に迎えにきてくださいました。Aさんは私を見るなり嫌な顔一つせず「電話が来たときはびっくりしたよ」と笑ってくださって、一緒に駐在所に戻ったあとは私をベッドに寝かせ、丁寧に毛布をかけてくださいました。
その後はテレビのバラエティ番組を観ながら、Aさんが夜通しさまざまなお話を聞かせてくださった記憶があります。沖縄に生まれ、ようやく憧れの警察官になったこと、はじめて首吊りの現場に立ち会ったときのこと、いまは一人でこの島に駐在していること、当初は那覇に比べて退屈に感じたけれどすぐにこの島が好きになったこと、観光ガイドに載っていないお気に入りのビーチがあることなど、話の内容は今でもよく覚えています。島で騒動を起こしてしまったことへの謝罪を私が口にすると、「そんなの気にせず今度は遊びに来ればいいさ。きれいな島だから」「明日ゆっくり寝るさ」と笑ってくださいました。
私の家庭事情を気遣ってくださったのもとても有難かったです。家族への連絡や身元引受人の選定について話が及び、私が自身の家族や彼らとの関係──両親がカルト宗教に入っていること、実家と縁が切れていること、4人姉弟全員が精神病か発達障害を患っていること、姉の婚約が破談になっては大変なので親族に自殺未遂の事実を知られたくないこと──について説明すると、それにも親身に耳を傾けてくださいました。
その晩はよく幻聴を聞いた記憶があります。最初は「夜中でもセミの鳴き声がにぎやかだな」と思っていたのですが、しばらくしておかしいのは自分の耳なのだと気がつきました。ときどき幻覚も現れて、あるときは実家の猫が隣で寝ているのが見えてその毛並みに愛しい気持ちになったり、またあるときは死んだはずの教祖が枕元に立っている感覚を抱いて複雑な気持ちになったりしました。
巡視船が迎えに来る→閉鎖病棟へ
身柄輸送のためにやって来た船は気後れするほど立派でした。船体は3階建てで操縦席も3席ほどあり、船内には10名以上の警察関係者の方が乗っていたように思います。「無様にも死にぞこなった私のためにどれだけの税金が使われたことだろう?」──そんなことを考え出すと、叱責一つせず私を気遣ってくださる皆様には合わせる目線すらありません。おまけに海は強烈な時化で、船底が海面に叩きつけられるたびに船は大きく揺れ、お巡りさんのうち何人かはトイレに籠もっておられました。(本当に申し訳なかったです。)
航海中に事情聴取も行われました。聴取を担当してくださった警察官の方は同い年(24歳)で、親しみを込めて私を下の名前で呼んでくれ、それがなんだか嬉しく面映く、「下の名前で呼ばれるのはどれくらいぶりだろう?」と思いました。
「沖縄では友だちを下の名で呼びあうさ。だから自分が東京の大学に入ったとき、初対面の女の子も片っ端から下の名前で呼んじゃって、クラスメイトに”女ったらし”だと思われちゃって、でえじ(とても)気まずかった」
そんなお話に笑わせてもらったり、お互いのことを話したりしているうちに船は港に着き、私はそのまま那覇警察署に連行されました。結局、私の身元は那覇市福祉課の方が引き取ってくださり、その後は職員付き添いのもとで精神科を受診することで話がまとまったようでした。
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病院は那覇郊外の丘の上にありました。お医者さんは私が所属していた宗教をご存知で、「有名な教団だね〜。そういえばO村の海岸にも教団施設があるよね」と仰ったので、私は「そこでも少しだけ暮らしたことがあります」と答えました。(病棟では自分と同年代くらいの研修医の方々(?)が白衣姿で忙しそうに立ち働いていて、その様子がなんだか眩しく羨ましく、皆様の姿を見ながら「自分もむかし有名医科大に首席で合格したのに、いったいどこで人生を間違えたのだろう?」と泣きたくなったのを覚えています。)
さて、ひととおり自分の人生について聞かれたあと、最後に「今は死にたいと思いますか?」と尋ねられました。
「とりあえず今は入院してゆっくり休んで、今後のことはおいおい考えましょう」「せっかく沖縄に来たんだったら、羽を伸ばせる環境でゆっくりしてほしいからね」
そんな先生のお言葉に励まされ、看護師の方から説明を受けながら10枚ほどの書類にサインをしたあと、私は二重扉の向こうの病棟に案内されました。自室の窓の下半分は曇りガラス、上半分は通常のガラスで、そこからだけは沖縄のきれいな青空がのぞいていました。
生活保護申請と病棟での生活
ところで、所持金が数千円ほどの私には入院費を払う余裕などありません。院長先生は「お金のことは後でいいから」と仰ってくださいましたが、もちろんこれ以上ご迷惑をおかけすることだけはなんとしてでも避けねばなりません。
焦った私は市役所に電話をし、藁にもすがる思いで事情を説明しました。
するとなんとその翌日には沖縄県の生活支援を担当する部署(「サポートセンター」という名前でした)の方々が病棟にいらしてくださり、そのときに生活保護の申請の提案もしてくださったのでした。
「ご家族に照会が行かないように担当部署には猛プッシュしておくから、お金のことは全部まかせてゆっくり休んでね」
「もしご両親や教団とのあいだで法的なやりとりをする時は僕たちが代理でやることもできるから」
そんな励ましのお言葉の一つ一つに勇気をいただき、福祉の専門家の方々がそばにいてくださることの心強さを私はあらためて実感しました。
「窓口が閉まるまであと1時間ですね。急ぎましょう」
そう仰るとみなさまは慌ただしく荷物をまとめ、私のために足早に市役所へ向かってくださいました。
*
ここで閉鎖病棟での生活についても少しだけ書いておきたいと思います。
といっても、食事以外にすることは殆どなく、患者の皆さんはお昼寝をしたりテレビを見たり、病棟の廊下を往復したりして一日の大半を過ごします。
(私自身、あまりにもすることが無いので、羽生九段の棋譜をならべたり大学入試を解いたり、それも尽きるとCaltechのホームページで無料公開されている『ファインマン物理学』を読み返したりしていました。)
ただし時間は限られていましたが、「作業療法室」というリハビリ部屋では本を読んだりボードゲームをしたり、さらにはカラオケをしたり楽器を弾いたりすることもできて、私たち患者はこの時間をいつも心待ちにしていました。(音楽家をされていた患者さんはよく三線で島唄を唄ってくれて、私はそれを聴くのが好きでした。)
さて、そんな娯楽やらイベントやらで夜までどうにか暇をつぶして、21時になると食堂に集まってみんなで眠剤を飲み、そこで病棟の長い一日は終了となります。(こだわりが強い方もいるのでたまに席の取り合いが起きていました。)
ところで、衣食住が確保された病院での生活はもちろん快適だったのですが、その一方で患者の皆さんからは哀しさのようなものも感じられました。外界のヒトやモノとの接触がない環境では心踊る出来事が一切起こらないからです。
ここには出会いがないので友情も恋もありません。他者との交流を通して得られる様々な感情──感動を共有する歓びも、衝突したときに得られる学びも、異なる価値観に触れた際の驚きも、ここには一切存在しません。
時間の流れもあってないようなもので、だから季節の変化を感じながら現在を生きることも、自己実現の物語を紡ぎながら将来に思いを馳せることも出来ません。
外の世界には青春を謳歌する若い人たち、あるいは子供や孫に囲まれて老年を過ごす方たちがいる一方で、現代の精神医学によっては根本的な治癒が難しいとされる病と闘いながら、今後も人生の長い時間を病棟で過ごすことを運命づけられた人たちがいる──その事実には何度でも胸を締めつけられる思いがしました。
ただもちろん、心が安らぐ瞬間も病棟ではたくさんあります。
たとえば週に一度、心理カウンセラーの先生がギターを片手に病棟にいらっしゃって、患者さんのリクエストに応じて歌を歌ってくださいます。先生が尾崎豊や中島みゆきを歌い出すと、ふだんは塞ぎ込んでいるように見える患者の皆さん──会話をするのが困難な人も、ずっと虚空を見つめるだけの人も、鏡の前から動けない人も、「俺は留置所に帰る!」と暴れていた人も、この時だけはそれぞれの音色でうたを歌い、それぞれのリズムでステップをとっていて、そんな光景が私はとても好きでした。
屋上の庭園で過ごすひとときも最高です。
清潔な人工物に囲まれた環境では五感が刺激される機会などありませんから、庭園にあふれる光や音や匂い──花の香りや草いきれ、空の色や木々の色、鳥のさえずりや蝉の鳴き声がとても新鮮に感じられるのです。みんなで芝生の上に寝転んで大きく呼吸をすると、少しづつ生きている実感が湧いてきました。
屋上からは陽光きらめく海も見渡すことができました。(あるとき看護師さんが眼下の島々を指差して「あれが(私が未遂をした)〇〇諸島だよ」と教えてくれて、あらためて「本島からこんなに近かったんだな」と驚いた記憶があります。)
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サポートセンターの方々(代理で生活保護の申請をしてくれた方々)からもたくさんの支えを頂きました。
皆さまは毎週私に会いに来てくださって、あるときは同僚の方々に寄付を募って集めた衣類を差し入れてくれたり、またあるときは職業訓練のパンフレットを揃えて持ってきて下さったりしました。
受給決定と退院
生活保護の申請からおよそ1ヶ月、とうとう保護の受給が決まりました。
同時に近日中の退院も決定し、仮の住まいとして安価なカプセルホテルも確保することもできました。今後の生活の詳細は決まっていませんでしたが、ひとまず目下の経済的基盤が確保できたことで(少しだけですが)心も軽くなっていたように思います。
院長先生が「ここの病院で働くのも一つの手だよ」とお声をかけて下さったのも有り難かったです。これまで介護士になろうと考えたことはありませんでしたが、長いあいだ患者として行動の自由を制限されながら生活していた身には、その仕事の重要さや尊さが痛いほどよくわかります。
〈外の世界もいいけれど、病棟は病棟で悪くないよね。〉患者の皆さんにそんな風に思ってもらえる環境を創る努力をする──大変には違いありませんが、それはきっとやりがいのある仕事だろうなと思いました。
また、私が教育関係の仕事に興味があることを話すと、看護師さんは貧困家庭向けの学習支援ボランティアの存在も教えてくださいました。沖縄と本土との教育格差を実感する機会が多々あっただけに、そして私自身が大学を中退しているだけに、こちらの仕事もとても魅力的に感じました。
退院日には不安を感じましたが、病院スタッフさんが掛けてくれた「ちゃんと死なずに通院は続けるんだよ」「ダメだったらまた戻ってくればいいし」というお声に励まされ、私は自分を叱咤して病棟を出ました。数ヶ月ぶりに乗った「ゆいレール」から眺める外の世界は初夏の光に溢れていてとても眩しかったです。多くの方々の助けを借りながら閉鎖病棟で生活する日々を終えて、(希死念慮の消えない身には辛い事実ですが)自分の人生は自分だけのものではないのだということを私はあらためて実感しました。
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