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美味しい焼きそば

 今日は、美味しい焼きそばを作ることができた。

 これまでにも何度か作っているけど、麺がブツブツに切れてしまったり、塩味が濃すぎたりと、なかなか上手く作ることができなかった。

 私が仕事を辞めて、約八か月が経とうとしていた。

 私は、四年間官庁に勤め、そのあと四年半ほど小さな事務所に勤めてから、自営業者として独立した。ある専門的な資格を取得していたので、それを生かして事務所を経営した。その仕事は、私には向いていたのかもしれないが、そもそも働くことがそれほど好きではなかったので、独立をした当初から、早く引退をしたいと考えていた。

 当初は、十年くらいで引退したいと考えていたが、結局、二十年近く仕事をしていた。

 仕事では、それなりに評価され、お金もそれなりに稼ぐことができた。

 そして、色々な要素が重なって、引退するタイミングが訪れた。私は、その機会を逃さずに、仕事を引退した。

 私は、仕事を辞めると同時に、家事をするようになった。それまでも掃除くらいはしていたけれども、家事全般をするということはなかった。特に、料理はほとんどと言ってよいほどすることがなかった。本当に、休日に真似事をする程度だった。

 それが、仕事を辞めた翌日から、料理をするようになった。慣れないうえに不器用なので、時間はかかるし、上手くできなかった。

 幸い、今はネットで調べれば、作りたい料理のレシピは直ぐに見つかるし、なんなら動画で、作り方まで詳しく知ることができる。

しかし、見るのとやるのとは大違いで、実際にやってみると、そんなに簡単に上手くはいかない。仕事で、難しい案件を処理する方が、ずっと楽なぐらいだ。

 料理をするようになって、和食、洋食、中華など、色々な料理に挑戦してみた。そうして半年も経つと、何となく一通りは、レシピを見ながら作ることができるようになった。段取りも少しずつ良くなっていき、初めのうちは、夕食作りだけでも二、三時間はかかっていたのが、下ごしらえに三十分、調理に三十分ほどで作れるようになった。

 そんな中で、何度か焼きそばを作った。焼きそばと言っても、肉野菜炒めに麺が入っているといった感じのものだ。

 初めは、一度に野菜も肉も麺も炒めようとして、上手くいかなかった。味付けも、ソースのほかに、塩と胡椒をかけすぎて、塩辛くなることが多かった。

 仕事を辞めてから、色々なことを考えるようになった。これまでは、あまり自分自身に向き合おうとはしていなかった。現状で精一杯で、その余裕もなかった。正直に言うと、自分自身と正面から向き合うのが怖かった。本当に、自分は自分の思うように生きてくることができたのか、思うように生きているのか、そんなことを考えるのが怖かった。

 しかし、仕事を辞めて時間ができると、否応なしに、そういうことと向き合うようになった。

 一気に生活パターンを変えるのが怖くて、仕事をしていたときと同じように、朝は五時に起きる。そして、仕事をしていたときと同じように、朝食をとって、身支度をして、通勤していたのと同じ時間帯に散歩をするようになった。

 散歩をしながら、これまでの人生を振り返り、何か後悔していることがないかを考えたが、幸い後悔していることはなかった。しかし、これからやってみたいこと、やりたいことは簡単には思いつかなかった。そういった毎日の中で、料理は仕事を辞めてから始めた唯一の新しいことだった。ただ、料理にはそれほどのこだわりはなく、一応作れればいいぐらいにしか考えていなかった。

 なのに、なぜか、焼きそばが上手く作れないことには、こだわってしまった。どうして、こんなにもシンプルな料理すら満足に作ることができないのだろうか。そこには、これまで仕事をしてきた中で身についた合理主義、効率主義といったものがあった。私は、生来の面倒くさがり屋で、特に仕事はあまり好きではないので、できる限り合理的、効率的にやりたいと考えて、毎日どこか忙しなく、焦っているところがあった。それが、料理にも端的にあらわれていたのだと思う。


 そして、今日は、やっと、焼きそばを上手く作ることができた。

 麺は、ソース付の細麺を買ってきた。そして、まずは野菜を切った。キャベツを一口大に、ピーマンを乱切りに、人参を小さめの短冊切りに、タマネギを薄めにスライスした。そして、これらの野菜を炒めた。フライパンに少しサラダ油をしいて、中火よりも少し強火で炒めた。塩と胡椒は、ほんの少しだけ加えた。塩辛くしてしまうと、リカバリーができないということは、この半年以上の経験から学んでいた。野菜をしんなりするぐらいまで炒めると、いったんお皿に取った。

 そして、次は、もう一度フライパンに少しサラダ油をしいて、豚肉の肩ロースの細切れを中火で炒めた。全体に火が通るぐらいに炒めてから、いったん火を止めて、そこにさきほど炒めた野菜を加え、麺に付いていたソースを半分だけ加えて再び少し炒め、またこれらをお皿に取った。

 最後に、麺を電子レンジで三十秒加熱してからフライパンに入れ、少量の水を加えて、中火で炒めた。少しずつほぐし、麺がブツブツに切れないように注意しながら、麺に付いていたソースの残り半分を加えて炒め、これをお皿に盛った。

 そして、既に炒めてあった野菜と豚肉を再びフライパンに戻して、温める程度に炒めた。これらをお皿に盛ってあった麺の上に盛り付け、焼きそばが完成した。

 何度か炒めてはお皿に取るという作業を繰り返したことで、今回はじめて、自分で食べて美味しいと思える焼きそばを作ることができた。

 この完成した焼きそばを食べながら、思うところがあった。自分で美味しい料理を作ることができて、これを食べることができるのは、それだけで十分幸せなことだ。

 これまでは、仕事で常に完璧を目指してきた。それは、一見他者の評価を求めているようで、実のところは、自分自身が満足できるようにしたかっただけのことだった。そして、自分自身は満足しても、他者がそれをどのように評価するのかは分からないので、仕事で案件を処理して、ほっとすることはあっても、幸せを感じることはなかった。自分はプロとして、できるだけのことをやったという自負はあっても、顧客がそれに満足しているのかどうかは分からなかった。

 私は、ずっと、顧客の利益を最大限にはかることを目的として仕事をしてきた。しかし、それが達成されているのかどうかが分からず、幸せを感じることができなかった。

 ところが、料理というのは、手間をかけて作り、自分が美味しいと思えれば、それだけで幸せを感じることができる。どんなことでも、幸せを感じることはできるのだと頭では分かっていたが、それを実感できないでいた。

それが、今日、焼きそばが美味しく作れたというだけで、小さな幸せを感じることができた。

 リタイア後の生活では、こういった小さな幸せを積み重ねていきたい。

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