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小説『死海(仮)』断片②

 彼女と初めて会った日のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。

 心地よい冷気が徐々に鋭さを持ちはじめた、秋の終わりの日だった。僕は古いオフィスの埃っぽい会議室にいた。
役者・我妻健斗として18歳の時から活動を始めて、八年。昨年辺りからようやく名前が売れはじめて、今年の八月に名のある演出家が手掛ける舞台に出演した。それを機にテレビドラマやら雑誌やらの仕事が舞い込んでくるようになった。
その日は雑誌のインタビューを受ける予定で、数多くの俳優の中から選ばれるために身につけた“オーディション会場には30分前に着くように向かう”という癖があった僕は、待ち合わせ場所のオフィスに30分前に到着した。そしてそのまま記者を待つことになった。
会議室は簡素な空間だった。長机が部屋の形に沿って長方形になるように並べられて、等間隔に椅子が備え付けられている。窓際にはホワイトボードが設置されていて、部屋の四隅には数字やアルファベットが記された大きな段ボールが数個積まれている。
十五分程待つと会議室の扉がキィと音を立てて開いた。
「大変お待たせしました」
そう言って黒髪の女性が扉の前で深く頭を下げる。

 彼女が顔を上げた瞬間に、何の変哲もない会議室が舞台に、ありふれた蛍光灯がスポットライトに変わった、ような気がした。
空間の全てが彼女を引き立て、彼女は空間を支配する。その圧倒的な魅力に、観客はひれ伏す。その観客は、僕一人だが。
彼女の衣装は簡素そのもの。白いシャツに紺のジャケットとスカート。一般的なOLが身につけているものと変わらない。彼女の纏うオーラ以外の全てにおいて、彼女は“普通”だった。
「私は、青羅出版の田崎美宇と申します。我妻さん、本日はよろしくお願いいたします」
彼女はそう言って微笑み、名刺を差し出す。少し低めのハスキーボイスでスラスラと流れるように話す。台詞みたいな挨拶だった。
名刺を受け取りながら、僕の頭のなかは“僕は彼女と同じ舞台に立つに相応しくない”という考えに支配されていた。彼女が僕の手の届かない場所で、他の誰かと台詞を交わし、歌い、踊る画が浮かんできたのだ。それでも平静を装って、
「我妻です。田崎さん、本日はよろしくお願いします」
と自分の名刺を差し出す。彼女はそれを丁寧に受け取った。
昔取材をしてくれた記者が、出版や新聞の人間にとって名刺は宝物なんだと語っていた。彼女も僕の名刺を宝物にするのだろうか。
「さあ、掛けてください」
呆然とする僕に、彼女は表情を崩さないまま席を勧めた。

 インタビューは恐ろしいほどにスムーズに進んだ。彼女と話していると、なぜか自分の言葉がスラスラと出てくる。まるで舞台上で決められた台詞を言っているときみたいで心地よかった。
インタビューが私生活についての話題に入り、僕はほとんど無意識に問いを投げかけていた。
「田崎さんは、お酒とか飲まれます?」
口をついて出た言葉は、引っ込めようとしたときにはもう遅い。自分が質問される立場に徹しなければいけない場面にもかかわらず、その設定を自ら壊してしまったことにひどく後悔する。
でも、彼女は微笑んだ。ふんわりとした花びらがこぼれてくるような笑みだ。
「お酒ですか? たしなむ程度ですよ」
「・・・お。いける口の人ですね」
一瞬の遅れ。少し上ずった声。四方八方を這いずり回る視線。きっと僕は今、世界で一番かっこ悪い俳優だ。
「僕も結構お酒が好きで、よく一人でも飲みに行っちゃうんですよ」
「おひとりで? それは新たな一面ですね」
「・・・よかったら今夜一杯どうです?」

この会議室はいつまで経っても僕の身体に馴染んでくれそうにない。彼女の背中越しに見えるホワイトボードが僕に鋭い視線を向けているように感じる。僕の後ろにあるであろう段ボールが“お前のような男が彼女と同じ舞台に立てるわけがないだろう?”と言っているような気がする。この季節なのに、背中を汗が伝う。
「あははははは!」
「え、」
視線も声も全部吹き飛ばす溌溂とした笑い声に、僕は小さな呻き声を発してしまう。台詞を言うこともできない。
「ぜひご一緒したいです」
それでもどうやら僕はオーディションに受かったらしい。こうして僕は彼女主演の舞台に引きずり上げられた。

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