高崎競馬_いきのこり

2020年を迎える前に。-懐古 高崎競馬-

写真の光景を見、私は嬉しくなった。

私の群馬県にもあった競馬場。

高崎競馬場。


その「生き残り」と出会った


「生き残り」という表現が礼を失するとも思いながら、

最大の敬意のあらわれとして、ここに書き記したいと思った。

何故なら、そこには人の姿が常にあるはずだからだ。


競馬に関わる人たちは、その専門技能者ということだ。

つまり、一芸特化の経歴を持つ人材ほど、「つぶしが利かない」。

再就職先、人材市場でどんな評価を受けるかは想像に難くないだろう。


しかし、競馬という世界は、専門の世界は、それで成り立っているのだ。


そういう一芸特化の「つぶしが利かない」、人材同士が力を揮い、

浮世離れしたレベルまでスキルを研ぎ澄ませて、

仕事に臨むスペシャリストの世界なのだ。


見落とされがちなアングル。仕事場、産業の素性


一つの競馬場の廃止。

飲食店や百貨店が潰れるというものとは、また性格が異なる。

競馬場とは人と馬の「生き場」であり「活き場」であり、「行き場」だ。


高崎競馬場の廃止は、数えきれない程のモノゴトに影響を与えた。


まず地方競馬所属の競走馬たちは、「必要」がなくなってしまう。

出走するレースが開催されなくなるから。

需給、因果関係の必然だ。


馬がいないなら、調教師も厩務員も「必要」がなくなってしまう。


調教師も厩務員も不要なら、「厩舎」も「トレーニング施設」も不要。

「厩舎」も「トレーニング施設」も不要なら、「水や電気やインフラ」も不要。

「水や電気やインフラ」が不要なら、「土地」も不要。


ひとつの「不要」が、無数の「不要」に増殖していく様がわかるだろうか。


ほんとうに自分のマチに無関係だと思えるだろうか?


この他、影響が及んだ範囲をかいつまんで連ねるだけでも以下の通り。


馬たちの飼料、穀物、牧草、寝藁、オガ等を供給する専門業者。

馬具、調教道具、衣服、手入れ用品、医療道具関連。

装蹄師、馬医、生産牧場、育成牧場、馬喰関係。

メディア関係者、ラジオ関係者、アナウンサー、新聞社、記者。

鉄道やバス等を運行していた交通会社。

重機、農機具、車両を提供する企業。

周辺の飲食店や商店街、サービス業を営む店舗。

競馬場内の施設メンテナンス、金融、警備、飲食業に類する仕事。

競馬場を開く際からの不動産権利関係者。


そして、地方競馬のジョッキーたち。

競馬ファンたち。

馬たち。


みんな自身の暮らしがあり、そして家族がいた


単純に”最低限度の代償”を差し出せば済むなんて、産業は甘いものじゃない。

きれいな”引き算”なんかでは到底、許されないのである。

それはすなわち、その産業の”本当の規模”を示す指標ではないか。


いまこそ高崎競馬場について、まとめ(以下引用)


高崎競馬場(たかさきけいばじょう)は、群馬県高崎市で1924年(大正13年)から2004年(平成16年)まで開催されていた地方競馬の競馬場。

1924年(大正13年)開設[1]、面積は約10ヘクタールあり、1948年(昭和23年)以前に民間が行っていた競馬場を、競馬法施行と同時期に公営競馬(地方競馬)として群馬県を中心として強制的に運営することになり、群馬県とその関係機関が相続にかかった地権者から購入しようとしたため、土地の所有権については現在も複雑な利権関係になっている[2]。開催廃止時には群馬県と高崎市が設置した一部事務組合である群馬県競馬組合が主催していた。

また厩舎などは競馬場に併設していたが、「足利競馬と連携を取る」という名目で当時の群馬県議会議員によって現在の伊勢崎市に造成された境町トレーニングセンターへ移動され、その後敷地内に場外売場の境町場外も設置された。

コースはダートのみで、1周1200メートルの右回りで直線走路は300メートル。D-Net加盟であった。

宇都宮競馬場、足利競馬場(2003年(平成15年)3月廃止)とともに「北関東Hot競馬」の名称で人馬の交流レースや北関東グレードの制定など、幅広い提携を行っていた。また個人協賛競走の先駆けとなる「企業・団体協賛競走」を実施。のちに個人も対象に加えた。個人の場合1万円、法人・団体が参加する場合3万円を支払い、それ相当の商品を優勝馬の関係者に贈呈することが条件だった。

近年の累積赤字経営が響き、売り上げ好転の見込みがないとして2004年(平成16年)限りでの廃止が表明された。これに対しライブドアの堀江貴文前社長が2005年(平成17年)1月より競馬法が改正され、馬券発売などの民間委託が可能になることを受けて高崎競馬への参入を検討していたが、県との話し合いが付かず、2004年(平成16年)12月31日の開催を以て廃止されることになり、最終的に60数億円の負債を抱え競馬場の歴史に幕を下ろすことになる。

2005年(平成17年)3月までは群馬県競馬組合が地方競馬他場の場外発売を行っていたが、4月1日より株式会社日本レーシングサービスが業務を引き継ぎ、「BAOO高崎」と名称を変更して引き続き場外発売を実施している。これは2005年(平成17年)1月に改正された競馬法によって新たに可能となった民間委託による場外馬券発売施設の第1号である。

また日本中央競馬会 (JRA)も、2011年12月までは「高崎場外発売所」、2012年1月からは「ウインズ高崎」の名称で同一施設内において中央競馬の場外発売を行っていた。

2015年度より、高崎競馬場跡を利用した「群馬県コンベンション施設整備基本計画」が着工することに伴い、ウインズ高崎は2014年6月1日で営業を終了した。

なお、BAOO高崎はウインズ高崎の営業終了後も引き続き営業し、2016年3月30日には同じ敷地内に新しい施設を造成して移転している。


1923年(大正12年):高崎競馬倶楽部設立。
1924年(大正13年):開設、群馬県畜産連合会の主催で競馬開催が始まる。
1943年(昭和18年):第二次世界大戦により競馬開催中止。
1945年(昭和20年):群馬県馬匹組合連合会の主催で競馬開催が再開。
1948年(昭和23年):前橋市と伊勢崎市が主催者に加わり公営競馬を開催。
1951年(昭和26年):太田市が主催者に加わり公営競馬を開催。
1968年(昭和43年):前橋市、伊勢崎市、太田市が組合を脱退し、以降は群馬県と高崎市が主催者として公営競馬を開催。
1976年(昭和51年):境町にトレーニングセンターが開設される。
1985年(昭和60年):境町場外発売所設置。
1993年(平成5年) :FNSの日の中の一企画として第1回平成GIダービーを開催。
1995年(平成7年) :JRAGI競走の場外発売開始
2004年(平成16年):12月31日の開催をもって廃止。
2014年(平成26年):JRAWINS高崎の発売業務を6月1日に、払戻業務を7月31日をもって終了。
2016年(平成28年):BAOO高崎が3月30日に敷地内移転。


1924年-2004年ということは、

群馬県の競馬の歴史はじつに80年の歴史があったということです。

お気づきの方がいらっしゃいますか?

群馬の絹産業が隆盛し、近代化がはじまった時代と重なっていることを。


1924年の前10年後10年を見ると次の通り。


1914年(大正3年)
8月2日 - 東武鉄道佐野線館林駅 - 佐野町駅(現:佐野市駅)間が開業。
8月15日 - 足尾線足尾駅 - 足尾本山駅間開業(貨物線)。これにより足尾線全通。
11月1日 - 足尾線間藤駅開業。足尾駅 - 間藤駅間旅客営業開始。
1915年(大正4年)
桐生高等染織学校設置。

1917年(大正6年)
中島知久平、飛行機研究所設立。

3月12日 - 中原鉄道(現:東武鉄道小泉線)館林駅 - 小泉町駅間開業。
1918年(大正7年)
スペイン風邪流行、死者766人。
桐生倶楽部発足。
1919年(大正8年) - 桐生倶楽部会館が完成。
1920年(大正9年) - 第一回国勢調査。県内主要都市の人口は以下の通り。
前橋市:6万2,325人、高崎市:3万6,792人、桐生町:3万7,674人。
1921年(大正10年)
3月1日 - 山田郡桐生町が市制施行し桐生市誕生。人口は約3万8,000人。東毛地区初、県内3番目、関東では11番目の市となる。
7月1日 - 上越南線(じょうえつなんせん 現:上越線)新前橋駅 - 渋川駅間開業。
1922年(大正11年)3月4日 - 中原鉄道が上州鉄道と改称する。
1924年(大正13年)3月31日 - 上越南線渋川駅 - 沼田駅間開業。
1926年(大正15年)11月20日 - 上越南線沼田駅 - 後閑駅間開業。
昭和
1927年(昭和2年)4月1日 - 高崎市に群馬郡塚沢村、片岡村が編入される。
1928年(昭和3年)
10月30日 - 上越南線(現:上越線)後閑駅 - 水上駅間開業。
11月10日 - 上毛電気鉄道中央前橋駅 - 西桐生駅間開通。
1931年(昭和6年) - 中島飛行機株式会社設立。
1932年(昭和7年)3月18日 - 東武桐生線相老駅 - 新大間々駅(現:赤城駅)間開業。
1933年(昭和8年)4月1日 - 桐生市に山田郡境野村が編入される。人口は約7万5,000人。
1934年(昭和9年)
11月11日〜14日 - 栃木・群馬・埼玉3県にて陸軍特別大演習が行われる。
11月16日 - 昭和天皇が桐生市に行幸。昭和天皇誤導事件が起きる。


この時期、いかに日本中が近代化を進めてきたかがよくわかります。

こんな群馬県の田舎にまで鉄道網を発達させ得た経済的背景には、

富岡製糸場をはじめとする絹関連産業のシルクマネーの存在を無視できない。


ちなみに太字強調が特筆すべき養蚕と絹関連の出来事です。

中島飛行機といえば現在は自動車メーカーSUBARUですが、

そのルーツたる飛行機研究所は、じつは養蚕小屋からはじまっています。


歴史やストーリーには、必ず接点やクロスポイントがあるのですよ。



競馬場は”浮いた”存在ではない。地場に根差したモノ


私の周囲の乗馬クラブにも、高崎競馬を何かしらのカタチで受け継ぐ人たちがいます。

元競走馬担当の調教師や厩務員だったという、経歴をもった方々がいらっしゃいます。

現在でも伊勢崎市境にある境共同トレーニングセンターに、高崎競馬関係者が多数います。

群馬県馬事公苑にも冒頭のトラックが「生き残り」でいる。


そういう方々の苦難の記憶、けれど諦めない力があって、今日、

現在のあらゆる県内の馬関係の行事や、クラブ運営、馬術競技会は、

支えられ、守られ続けているのだということを忘れてはならないと思う。


「競馬は公営ギャンブル、きたないものだ!」

そういう移ろいやすい社会風潮の、暗い属性だけをかぶせられたまま、

そこにあった人と馬の生きざまを、否定されたくはない。


物語やストーリーまでもを無かったことにはさせたくない。


私はそう思っているだけだよ。


2020年、高崎競馬場の跡地にコンベンションセンターが開業する。

工事自体は2017年から着工、完成は2019年、稼働は2020年予定だそう。

なにか一つだけでも、高崎競馬場の名残となるものが残っていたら、良い。


「ソフト競馬」も「生き残り」のひとつのカタチ


私が以前の記事でも紹介した「ソフト競馬」の考案者も、

やはり地方競馬のジョッキーの一人であったそうだ。


(以下、ソフト競馬公式HP 会長挨拶より引用)


ソフト競馬考案者の福元です。

私は元地方競馬騎手でした。

所属していた「高崎競馬」が廃止になった時、

たくさんの「馬」と「人」が行き場を失くしました。

そんな「“競馬の廃止”はもう繰り返してはいけない」と常に思っていて、

まずは、

このソフト競馬が、「競馬の廃止を食い止める為の力」の一つになれればいいなと思っています。


ソフト競馬については、ぜひとも自身の目でHPやYouTubeを見てほしい。


むすびに。高崎競馬場のレース名をつらねる


群馬記念(統一GIII、北関東G1)
北関東菊花賞(北関東G1、北関東3冠の最終戦)
高崎大賞典(北関東G1)
開設記念(北関東G1)
高崎皐月賞
高崎記念
高崎ダービー
北関東クイーンカップ
青峰賞
サラブレッドカップ
スプリンターズ賞
新春杯
東国賞
高崎オークス


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