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【先行公開!】昭和20年代(1945-1954) -民衆の心を癒したラジオの音色

ラジオの普及と歌謡界のスターたち

 戦禍により、民衆の持つ蓄音機やレコードの多くが焼損・焼失し、レコードの生産もストップしていた終戦直後の昭和20(1945)年8月23日。ラジオから、レコードで再生された筝曲『六段』と『千鳥』が聞こえてくる。これが、戦後初めての娯楽放送とされた音色でした。
 戦前には国内でおよそ750万台が活躍していたと言われるラジオですが、戦禍による焼失や部品不足で、終戦直後には使用可能なラジオが300万台ほどに減少していたと言われます。そんな中でGHQは、メディアを統制しながら、ラジオなどの放送を通じて民主的な思想を民衆に浸透させることを計画。昭和20年11月、「昭和21年度中に400万台のラジオを生産せよ。その具体的な計画を12月までに提出せよ。」という旨の命令を発出します。しかし、戦前からラジオを生産していたのは、十分な生産設備を持たない中小企業がほとんど。戦前の生産最盛期でも年間の生産台数が91万台(昭和16年)だった業界にとって、この要求は到底太刀打ちできる規模ではありませんでした。そこに目をつけたのが、終戦により軍需を失っていた大企業たち。結果的に、このラジオ生産拡大計画には中小企業に混ざって松下電器産業(現・パナソニック)、早川電機(現・シャープ)、東京芝浦電気(現・東芝)などの大企業、旧財閥企業なども参加することとなり、ラジオの生産と普及が急拡大していきました。

 やがて、映画館も営業を再開。各地の映画館には人々が殺到したといいます。中でも、昭和20年10月に封切りされた松竹映画『そよかぜ』は、当時の大ヒット作の一つ。上原謙や佐野周二が扮するレビュー劇場の楽士たちが、劇場の照明係だった少女をスターにするという‘スター誕生物語’で、この‘少女’が当時新人女優だった並木路子。彼女の歌う本作の主題歌『リンゴの唄』は、映画公開翌年にラジオ放送の始まった『のど自慢素人音楽会』(いまの『NHKのど自慢』)で‘『リンゴの唄』が大氾濫’と評されるなど大ヒットし、‘戦後初のヒット曲’とされました。
 その『のど自慢』の昭和21(1946)年12月放送回の予選で、わずか9歳ながら美声を披露したのが、のちに‘歌謡界の女王’と称されることとなる美空ひばり。昭和24(1949)年公開の、主題歌も担当した初主演映画『悲しき口笛』の大ヒットを機に、一躍国民的人気を博します。

 その他、昭和22(1947)年に発表した『東京ブギウギ』をはじめ、「ブギの女王」としてヒットを連発した笠置シヅ子、同じ昭和22年から放送が開始された子ども向けラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』、‘男性歌手四天王’ともてはやされた『憧れのハワイ航路』(昭和23[1948]年)などのヒット曲をもつ‘オカッパル’こと岡晴夫、『湯の町エレジー』(昭和23年)の近江俊郎、「おーっす!」という威勢のいい挨拶がトレードマークの‘バタヤン’こと田端義夫、‘専売特許’と評された甘いクルーニング(クルーナー)唱法で「アイラブユー」と歌い上げた『星影の小径』(昭和25[1950]年)の小畑実など、たしかな技術を持った歌謡界のスターが次々に誕生しました。

 

‘大革命’ LPレコード発売と「ハイ・ファイ」の時代


 テレビの本放送が始まるのは昭和28(1953)年。それ以前の時代には、このようなきら星のごとく輝くスターたちの歌声を、人々は主にSPレコードやラジオで耳にしていました。しかし、終戦直後に「国家の再建には不要不急」とされたレコードの生産は必要資材の配給順位で最下位に置かれており、各社は思うようにレコードを増産できず、レコードの生産規模は昭和22年の末にようやく戦前の1/3に回復したほどでした。ただ、小学校教員の初任給が2,000円程度だったころに、SPレコードの定価は120円~135円(昭和23年)。価格的にも決して‘お手軽’と呼べるものではなく、主流だった10インチのもので片面の収録時間上限が約4分と、現代風に言うと決して‘コスパ’の良いものでもありませんでした。

 そのような状況下で「レコード界の大革命」「画期的な出来事」とされたのが、日本コロムビア社による日本初の「LPレコード」発売でした。
 「ロング(L)・プレイング(P)・レコード」の名前の通り、片面で約30分の収録時間。音質も従来と比較にならないほど良く、ビニール製のため軽くて丈夫。いいことずくめに宣伝されたLPレコードの輸入販売が、予告よりやや遅れて開始されたのは昭和26(1951)年3月のことでした。ただ、公務員初任給が5,050円ほどの時代にあって、LPプレイヤーが18,000円ほど、LPレコードが2,300円ほど。庶民が気軽に購入できるものではありませんでした。
 このLPレコード発売の恩恵にまず与ったのは、昭和25(1950)年の放送法改正以降、各地で開局準備が進み、昭和26年9月の「中部日本放送」や「新日本放送(現・毎日放送)」の開局を皮切りに各地で開局、ラジオ放送を開始することとなる‘民放’各局。音質が改善された放送環境下で音楽番組が増加する一方、ラジオリスナーたちの「高音質で受信したい!」という関心も高まり、「ハイ・ファイ(Hi-Fi;高忠実度)」が流行語となりました。

 当時の流行歌を一部紹介すると、昭和25年は美空ひばり『東京キッド』、笠置シズ子『買物ブギー』、昭和26年は津村謙『上海帰りのリル』、暁テル子『ミネソタの卵売り』、昭和27年は江利チエミ『テネシーワルツ』、春日八郎『赤いランプの終列車』、昭和28年は織井茂子『君の名は』、高英男『雪の降る街を』など。美空ひばりや笠置シズ子など、映画に合わせてヒットした曲に加え、『君の名は』『雪の降る街を』など、NHKの連続ラジオドラマの主題歌だった曲も軒並み大ヒット。庶民の娯楽の中心が引き続きラジオだったことが分かります。

 そして時代は、朝鮮戦争特需から高度成長の時代へ。昭和28年1月の新聞には「LP盤 すごい進出 完全にくわれた78回転」という見出しが躍ってLPレコードの躍進に牽引される国内市場の変化とSPレコードの停滞を報告し、2月にはテレビの本放送も開始されるなど、技術の進歩と庶民の生活水準の向上に合わせて、庶民を取り巻く「音」にまつわる環境も、急速に変化していく時代に突入していきます。

参考文献


岡部匡伸『ラジオの技術・産業の百年史 大衆メディアの誕生と変遷』勉誠出版2020
佐伯多門『スピーカー技術の100年Ⅱ 広帯域再生への挑戦』誠文堂新光社2019
倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍1979
中島裕喜「ラジオ産業における生産復興の展開」『経営論集 71号』東洋大学経営学部2008
大森淳郎「敗戦とラジオ」『放送研究と調査 2021年12月号』NHK放送文化研究所2021
向後英紀「GHQの放送番組政策」『マス・コミュニケーション研究 66号』日本マス・コミュニケーション学会2005
井村喜代子「占領政策の展開;戦後日本資本主義論のために(1)」『三田学会雑誌 Vol.72 No.2』慶應義塾経済学会1979

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