今日も「洲之内電気」で耳を肥やす -愛大生のミュージックライフ
かつては、いまの新居浜工業高等専門学校の場所に「愛媛大学工学部」のキャンパスがありましたが、1960年代前半にそれが松山に移転して以降、4年制大学に進学するためには市外に出ることを余儀なくされた、新居浜の若者たち。関東・関西方面や広島など、四国を離れて学生生活を送るケースが多かった一方、少なくない高校生は愛媛大学や松山大学を進学先として選び、県内で学生生活を送りました。
今回は、その中から主に愛媛大学に進学した新居浜の若者たちの、昭和時代のミュージックライフを紹介します。
これは、愛大に進学した昭和20年代生まれの方の話ですが、この方以外にも、愛媛大学に進学した多くの音楽好きの方が学生時代の思い出として口にしたのが、昭和当時、いまの松山市・上一万交差点から北に少し入った辺りに店舗を構えていた「洲之内電気」。のちに「洲之内テレビ」に店名を変え、今では松山市鉄砲町に店舗外観が残ります。
上一万交差点以北は、学校へも徒歩圏内で今でも学生たちの下宿が多いエリア。そんなエリアに立地する、オーディオの有名店。学生たちが入り浸るには、絶好の場所でした。
こう話すのは、昭和40年代後半に愛大で学生時代を過ごした男性。「真空管方式」ということで、スピーカーではなくアンプのことなのかもしれませんが、とにかく勉学の合間にお金を貯め、洲之内電気で機材を聴き比べ、お気に入りの機材を手に入れるのは大きな夢。他にも、スピーカーやアンプを買ったはいいもののプレイヤーを買うお金がなかったり、大きなスピーカーは置く場所がないのでエンクロージャー(スピーカーの外箱)無しで、純粋に「スピーカー」部分だけを購入し、「コンパネ1枚買ってきて、それを半分に切って90㎝角、真ん中に穴をあけてスピーカーをつけて、額縁みたいに壁にかけてた。」という方も。とにかく、少ない手持ちと狭い間取りと「洲之内電気」を最大限活用して、精一杯のオーディオライフを楽しんでいました。
一方で、音楽を聞く方ではなく、実際に演奏することを楽しむ学生たちも。
昭和44(1969)年11月の「東大安田講堂事件」が象徴的なように、激化するベトナム戦争と、自動延長について賛否のあった「日米安保」問題を背景に、ときに過激化する学生運動が注目された時代。そんな時代にあっても多くの学生たちは、順調な経済成長に歩調を合わせるように多様化していく様々な流行音楽を、このように思い思いのやり方で堪能していました。
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