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初恋はお尻の痛みに消えて

 平日の夕方の河川敷は時間の流れが緩やかで、冬の冷たい空気のなかに、優しい陽射しが柔らかな温もりを放っている。そんな緩やかで人も少ない広々とした草っ原の中央に一組の男女がいる。二人は何か言い合いをしているようである。

「俺のお尻を思いっきり蹴ってくれ!」
青年は言った。それは一世一代の愛の告白であるかのように、紛れもなく真剣で、これ以上ない程に思い切ったものだった。
「馬鹿じゃないの。気持ち悪いんだけど!」
彼女は語気を強めて、青年の真剣な願いを退けた。青年は内心狼狽えた。しかし、青年はそれでも諦めなかった。
「冗談を言ってるんじゃない!俺は本気なんだ。頼むから俺のお尻を思いっきり蹴ってくれ!」
「しつこいわよ!どうしてそんなことばっかり言うの!何度も何度も嫌だって言ってるでしょ!」
彼女は叫んだ。完全に怒っている。そして続けた。
「この際だから言うけど、私、あなたのことずっと前から好きだったの!だから、いつかはもっと良い関係になれたらなって、ずっとずっと考えてたの!それなのに、何でそんなこと言うのよ!」
彼女の瞳が潤み始めた。「女の子を泣かせるようなことをする奴は最低の屑野郎だ」、昔、童貞のケンゾウ爺さんが言ってた言葉が思い出される。そうか、俺はついに最低の屑野郎になっちまったのか。青年は心のうちで呟いた。しかし、青年は諦めなかった。諦める訳にはいかなかったのである。それ程に、青年の尻は蹴られたくてウズウズしている。
「俺のことを本当に好きだと思ってるんなら、頼みを聞いてくれよ!何も誰にも彼にも頼んでる訳じゃないんだ。他でもない、君だからお願いしてるんじゃないか!俺は君に蹴られたいんだよ!君じゃなきゃダメなんだ!俺のことを愛している証として、愛でも怒りでも悲しみでもなんでもいい!これ以上ない程に激しい感情の全てを俺のお尻にぶつけてくれ!」
青年も泣いた。
「なんで私なのよ!」
彼女の潤んだ瞳が青年を真っ直ぐに捉える。青年は大きく息を吸って言った。
「君のことが好きだからだよ!」
彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていく。その顔を見たとき、青年は恋のときめきというものをはっきりと感じた。彼女が動揺しているのが分かる。彼女は青年から目を逸らすと、暫くの間、もじもじとした。が、彼女はついに意を決したようにして、再び青年を真っ直ぐに見つめると、
「けど、私はやっぱりお尻を蹴って欲しいなんて本気でお願いしてくるような人とは付き合えない!だからお願い、私のことを本当に好きだと思ってくれてるなら、お尻を蹴って欲しいなんて言わないで!もし、それでも私にお尻を蹴って欲しいって言うんだったら、言う通りにするわ。けど、それっきりさよならよ!二人の関係はここで終わり。もう二度と元には戻れないわ!それでもいいの⁉︎」
と叫んだ。流れる涙はもう誰にも止めようがない。もし、彼女のりんご飴のように赤く火照った小さな顔を流れて止まない滂沱の涙を止めることができる者がいるとすれば、それは青年しかいなかった。青年はそのことを良く知っている。長い年月、彼女と一緒に居たからこそ、誰よりも彼女を見つめてきたからこそ、青年には分かるのだ。それ程までに青年は彼女を愛している。そして、愛する人を泣かせてしまっているということが青年にとってどんなに苦しいことか。長年思い合っていた男女がようやく相思相愛であることを確認し合えたのである。青年は、できることならば今すぐに馬鹿げた要求を撤回して、愛の言葉とともに、彼女の小さくて愛らしい身体をこの両腕で壊れるほど力強く抱きしめてあげたい、そして、「馬鹿なことを言って悪かった!もう二度と離れはしない、一生君のそばに居させてくれ!」と叫びたいと思った。青年は思い惑った、大いに思い惑った。しかし、決めたのである。青年は彼女に背を向けると、彼女の前にお尻を思いっきり突き出した。そして言った。
「俺のお尻を思いっきり蹴ってくれ!」
今の自分には彼女の涙を止めてあげる資格はない。そのことが青年にとっては何より苦しかった。だからこれ以上、彼女の泣き顔を見ることがないように彼女に背を向けたのである。彼女は大声をあげて泣いた。彼女の泣き声が振動となり、突き出したお尻を伝って青年の胸を締め付ける。青年の顔は梅干しのようになり、涙やら鼻水やらが顔中を流れる。愛する人の前にはとても晒すことができないほど、とんでもなくみっともない顔をしている。
「さあ!早く!俺のお尻を思いっきり蹴ってくれ!」
もう一度、今度はさっきよりももっと大きな声で青年は叫んだ。すると、彼女も叫んだ。それは言葉を持たない原始人の叫びだった。怒り、悲しみ、絶望、憎しみ、愛情、ありとあらゆる原始的な感情が全て剥き出しの叫びだった。そして次の瞬間、容赦なく振り出された彼女の右足が青年のお尻を完璧に捉えた。その刹那、夕方の河川敷の緩やかな静寂に激しい打撃音が響いた。余りの痛みに青年は一瞬息ができなくなった。打撃の衝撃が、お尻に染み入って、それは次第にヒリヒリとした痛みとなり、青年の鼓動を速めた。炙られているかのようにお尻がどんどんと熱くなっていくのを感じる。青年は顔を真っ赤にしながら、浅く短い呼吸を何度も繰り返した。とてつもなく痛かった、痛かったのだけども、嬉しかった、そして、気持ちよかった。青年はこれまで感じたことがないほどの快感を感じている。お尻の熱に愛おしさを感じる。青年はその痛みを通して、彼女と初めて一つになれたような気がした。が、痛みと快感に悶える青年を彼女はまるで小汚い野良犬でも見るかのように軽蔑した眼差しで見つめると、しばらくして歩き去っていった。青年は去りゆく彼女の背中を充血した目で見る。そして、
「ありがとう!本当にありがとう!絶対に幸せになれよ!」
青年は彼女に向かって全力で叫んだ。が、彼女は歩みを止めない。そして、振り返ることもなかった。しかし、「それで良いのだ」と青年は思った。別れの場面で男が愛した女にしてやれることは、惨めに負けてやることと、その人の幸せを心から願うことくらいである。ただ、せめて、このお尻の痛み、彼女が最後に与えてくれた激しい感情の感覚をずっと覚えておこう、そして、その幸せな感覚を抱きしめてこれから強く生きていこうと決めたのである。段々と小さくなり、夕暮れの美しい光の中に包まれて消えていく彼女の後ろ姿を青年はいつまでもいつまでも見つめ続けた。彼女の輪郭がぼやけてはっきりと見えないのは、西日が強すぎるせいだ、きっと。

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