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独自の物語をひらく

春から小社をお手伝いしてくれる出射優希さんが、写真集『物語』/金サジ に寄せて書いたテキストです。

 ページをめくるたびに現れたのは、理解など到底追いつかない物語世界だった。

 写されたものたちを断片的に拾い集め、歴史や文化と絡めながらここに描かれたものごとを読み取ろうとする動きは、この圧倒的な写真の前で、どれほどの意味を持つのだろうか、と思った。

 そうした視座から写真を見つめることは、社会のなかで作品が位置付けられていくうえでは必要なのだろう。けれど、『物語』に見出すことのできる「朝鮮と日本」「女と男」といった要素を丁寧に紐解くことで、撮影者のアイデンティティにまつわる逡巡を、何かわかった気になってしまうのは嫌だった。

 そもそも、理解などさせてはもらえない力強さをたたえたイメージを前に私ができたのは、ただ滑り落ちないように、ページに指を引っかけながら、目の前にある写真という物体にしがみついてみることくらいだった。

 あぁもう終わる、というところで、最後の語りが響く。

「わたしの知らない先の生物たちへ。/わたしの肉と声を捏ねて、/新しい地面を作っておこう。」「おまえがしっかりと足を踏ん張って/立っていることができますように。」

 豊かな水の前に立つ「彼女」の写真が現れて物語は途切れた。

 おまえはおまえのための、オーダーメイドの物語をつくりなさい。茫然としながらも、たしかに、そう言われた気がした。

 このどうしようもなく「在る」、イメージとして発生した物語は、他の誰にも改編することを許さない厳しさがある。

 ボルヘスが言葉のなかでバベルの図書館を創造したように、金サジは写真というメディアでしかなしえない方法で物語を現象として呼び起こし、揺るがない強度をもって語りきっている。このことが、何よりも私を勇気づけるのだ。相反する想いを抱えた瓜二つの双子。鎖で結ばれた二人の人間に、繋がれた方も繋いだ方も存在しないこと。浮遊する桃に巻き付いた双頭の蛇。

 私が望めば、誰にも有無を言わさない、私のための物語を編むことができる。金サジの写真に痛みと混乱を感じながらも、それ以上に、物語という手段が秘めた可能性と希望を知った。

 私たちはいつも、自らの外側へと物語を求める。

 完成された小説を読み、映画やドラマを観て、未知の体験をすることもあれば、物語の内部を通過することで解せない過去の経験や記憶を理解し、消化しようとすることもあるだろう。誰かのつくった物語を組み合わせることで、孤立した出来事に線を引こうとする。

 それと同じように、私は金サジの編んだ物語に自分自身の女性性を重ね合わせ、性別に起因した苦しさにアプローチすることもできるだろう。

 でもそれでは、この写真集が手渡してくれた感触に応えるのに不足しているように思える。ただ乗りはしたくない。それにもう、ありあわせの物語では済まないことに、実はずっと気づいていたように思う。気づいていたから、一方向にしか進めない言葉を(それゆえいくら支離滅裂でも否応なしに物語になってしまう言葉を)もって、歩を進めている。

 せっかくトッリクスターが現れたのだ。方法と手段はいくらでもあるだろうし、物語だからといって説明可能である必要はない。「新しい地面」に立って、オーダーメイドの揺るぎない物語を、自分のためにつくりたい。

(出射優希)



写真集はこちらから。
http://www.akaaka.com/publishing/KimSajik-story.html



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