政治的無関心を装うという政治的行為:創作のための時事勉強会07

※注意
 本記事は時事的問題について、後で振り返るためにメディアの取材や周囲の反応を備忘録的にまとめたものです。その性質上、まとめた記事に誤情報や不鮮明な記述が散見される場合があります。閲覧の際にはその点をご留意ください。


事例概要

発端

山下達郎の件とは

個人見解

 差別問題に中立はないと言われている。差別に対し人間の取れる立場は肯定と否定のふたつだけであり、そのどちらにも立たないという立場は、つまり肯定を意味している。

 肯定しないということは否定することを意味せず、否定しないということは肯定することを意味する。抵抗しないのなら、それは黙認と同じである。今回の問題はいわば、これに近い構図を持っていると言える。

 政治家がバラエティ的なメディア露出をするのは、そもそもクリーンで親しみやすいイメージを流布するためである。それ自体はイメージ戦略として妥当だが、政治家が裏で問題を起こしているのを覆い隠すためにイメージを流布している場合、批判が起こる。

 このとき批判されるのは、イメージ戦略を行った政治家だけでなく、その戦略に用いられた個人や組織も同様である。芸能人として、それ以前に一市民として把握しておくべき政治家の問題点を精査しないままコラボすることで、政治家のプロパガンダに利用されたことは組織運営上の大きな瑕疵であるからだ。

 類似の事例としては、やはり大阪で安倍晋三が吉本新喜劇に出演した事例もこれにあたる。

 個人や組織は経済活動において中立であるべき、というのではない。吉本や料理研究家が自民党や維新の支持者であることを公言しているのなら、コラボにも理解はできる。プロパガンダに利用されたという批判点こそ消えないものの、支持者ならむしろプロパガンダに積極的になるのは理屈として筋が通っている。

 問題はプロパガンダに利用されたことに加え、さらに料理研究家は中立を装っているということだ。「俺は料理研究家なんで人に料理教えるだけです」という発言は一見、料理以外を排するストイックな職人気質に見えるがただの思考停止に過ぎない。

 この世に政治的なものはなし、と言う。料理研究家はくだらん俗世のごたごたなど酒を飲んで忘れる高等遊民のつもりかもしれないが、維新の文化や知識に対する敵愾心を思えば、彼が料理研究家として日銭を稼げる日々が続く保証はどこにもない。


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