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~18歳シリアに行く~別れ⑦


諸注意  ※この文章はシリア・アラブ共和国への渡航を推奨するものではありません。情報を収集した上ご自身の責任で渡航される事をおすすめします。



※現在、今後シリア・アラブ共和国への入国を行った後は、「ビザ免除プログラム改定およびテロリスト渡航防止法」により米国へのESTAを利用した入国が不可となります。またこの旅行記中にある情報は断りのない限り、2020年2月以前のものであり、現在の状況は大きく異なると予想されます

※文章には筆者個人の偏見、勝手な予測、それらに伴う間違った情報、個人的な主義及び思想が出ることが予想されます。間違った情報に対する指摘や質問等がありましたらTwitter→@aka_ikura までお願いします
なお、主義思想に対する批判や未成年者の行動としての妥当性に関するコメントはお控えくださると幸いです。

※今回の記事は前回⑥からの続きになっています。初回の記事はこちらから、前回の記事はこちらから読めますので未読の方はそちらから読むことをお勧めします。




はじめに


前回の記事からほぼ1年が経過してしまった。
2022年になってまで、2020年の旅行について書き続けるのはまずいとかなんとか言っていた。

あの時はまだ、その後休学を選択するなんて考えなかったということが察せられる文章であり、見返していてなんだか懐かしく思えてきた。

ともあれ、お待ちいただいた方々には申し訳ない限りである。


なお『ヒストリエ』新刊情報は未だに出ていない。




下山


クラク・デ・シュヴァリエの観光を終えたころには、すでに午後3時を迎えていた。



事前の説明によれば、その日はもう1か所立ち寄るはずだったため「日没までにダマスカス間に合うのかな」と思いつつ来た道を戻っていく。


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もはや国境によって道路が分断されているようだ

グーグルマップを見た。
それにしてもレバノンに近い。


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レバノン北部につながる国境は、この時期開いていたのだろうか

道路標識にもレバノンの文字が目立つ。

今はなおさらのこと、当時でもレバノンはいよいよ社会構造そのものが危ない感じだった。

それでも、2日目にして息苦しさを覚えていた身としては、ここを抜ければ「レバノン」だということが与えるであろう安心感を想像できた。

これが市民から見た独裁国家混迷国家の違いなのだろう。
当然どちらにも住みたくはない。


そんなことを思いながらも、車は道を進んでいく。


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↑サングラス・バッシャールは警察・軍事関係に多い


道中にも体制プロパガンダ的な看板が多くみえた。



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↑新東名並みの速度制限


見ての通り、我が国の高速道路と比べても最高速度は結構緩い。

まあどうせめちゃ飛ばすので関係ないし、やたらある検問で止められるから時間はかかるんだけどね。




思想の強い店


クラクデシュヴァリエを出てしばらくしたところ、お腹が空いているだろうと声をかけられた。
朝にホテルで美味しいビュッフェをいただいたとはいえ、もう3時過ぎだ。同意すると、笑いながらドライバー氏が車を減速させていった。

停車して見上げた先にあったもの、先ほどの笑みの理由が理解できた気がした。



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シリアのおかき屋?

過剰なまでのアサド支持レストランがそこにあった。

これまでの行動を見たところ、こういった店が良いと判断してくれたのだろう。

最高だ。


店内に入ってからも驚いた。

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逆万国旗

客席に広がるシリア国旗バアス党旗

味付けじゃないところが濃すぎる、やばやばレストランだ。

カウンターで注文して商品を受け取った後、テーブルで各自食べる学食みたいなスタイルであり、気軽に立ち寄れる庶民的な店なのだろう。

とりあえず注文カウンターに行ってみる。

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「ご尊厳」自体はどこにでもあるが、不釣り合いにでかい


アツアツモチモチ


ここでは主にシイハを提供しているらしく、ガイド氏が適当な枚数注文してくれた。

注文をうけて目の前の窯で焼くというスタイル。

できたてで非常においしい。
(温かいのに不味いシイハにあったことがないが)

そして周辺国でもよく食べられるこの料理に、バアス党の掲げる汎アラブ主義的なものさえ感じたのは、レストランの思想に押された結果の考えすぎだったのかもしれない。

せっかくならスイーツも買っとくべきだった


再度目に焼き付けながらそこを離れた。
また食べたい。



シリアとヒズボラ



いままでと同様看板を眺めながら進んでいくが、1つ気になることがあった。

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高速道路脇の色あせかかった看板

この看板は道中にいくつかあった、レバノンのシーア派武装組織ヒズボラの看板のうちの1つである。

この時期のヒズボラに関わる大事件と言えば、この2カ月ほど前、2020年1月3日に起きたものが最大であろう。

バグダッド国際空港で、イラン革命防衛隊の実質的な指導者とされていたガセム・ソレイマニとともに、ヒズボラの司令官を務めていたアブー・マフディー・アル=ムハンディスら10人がアメリカ軍による空爆により殺害された事件である。

バグダッド空港に鎮座するアブー・マフディー・アル=ムハンディスの遺影的なやつ(2021年12月)


当然ヒズボラにも多大な影響を与えた事件だ。



それにも関わらず、これに関連したような目新しいヒズボラの看板はなかった。

「いや、その事件とシリアが関係ないからでは?」と思われるかもしれない。

しかし、例えばこの看板の左側の人物はアブ・ムハンマド・サルマーン
レバノン生まれでイラクでの各種作戦指導を司令官として行い、2014年にイラクで「殉教」した人物だと思われる。

シリアが全く関係ないのだ。これは純粋なヒズボラの看板だろう。

なぜ目新しい看板がないのかは謎であるが、これもシリアという国の特殊性を示す1つの事例ではないかと考える。

内戦においてシリアでの存在感を増したヒズボラは、それでもまだイラクのような浸透具合には至っていないことが、この看板にも表れていると感じてしまった。

過去回で触れたような、過剰なまでのアサド政権による親ロシアアピールの裏には、こういった親イラン勢力との駆け引きの意味があるのかもしれない。




マアルーラ


車が脇道に入っていき、そういえば今日のトリともいえる目的地があったなと思い出す。


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バス停

途中にバス停があったが、なんとも見覚えがある。
おそらくソ連の影響を受けたのだろうバス停の形状を見て、なんだか懐かしい気持ちになった。

少し行くとガイド氏が着いたぞ!と言ってきた。
妙にテンションの高い彼を見ていたら、車窓に看板があった。

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「ようこそ○○市」みたいなの日本にもあるよね

この看板を見て再度、ああソ連だと思った。中東諸国やキューバなどにはこういった、ある種東西冷戦の生み出した産物が散見されるのが面白い。

ともあれここが一時期有名になった、マアルーラである。
この国において少数派ながら重要な構成者たる、シリア正教会にとって重要な街だ。

ここまで書けばなぜここの名が世界に知れ渡ったか分かるかもしれない。
ISILによる破壊で有名になった悲劇の街だ。

上の写真だけでも過去と現在の差が、廃墟の数で分かるだろう。

車は坂を登っていく。

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動画の切り抜き

この写真を見て分かる通り、2020年のマアルーラ「綺麗」だった。

「真新しい壁や道」「立ち上るピカピカの十字架」、そして「ほとんど感じられない人の気配」である。
それらにより構成された「不気味な綺麗さ」をまとった「街」

薄気味悪かった。


そう感じながら、かなり上ったところで車は止まった。

目の前の建物がなんであるのかわからず、見回したところで十字架により教会だと分かった。

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この時はこのまだらな壁に特に注意を払わなかったが、出る時には見方が全く変わることになる。

さて入るかと左奥の扉を目指したところガイド氏は手前の狭い穴に入っていった。

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1メートルほどだろうか。

なんとこの小さな穴こそがこの教会の入口だったのだ。
結構入るのが大変だ。

その後、全キリスト教徒の一大巡礼地であるパレスチナのベツレヘムにある降臨教会で再度この形式の入口に出会い感動することとなるが、シリア正教会ではこの形式をとっているのかもしれない。

めちゃ大事な聖地なのに入り口がこの大きさ(降臨教会)


ともあれ中に入ると入口とはうって変わって開放的だった。

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上がガラスになっているあたりにも真新しさが出ているが、この教会はISILによる破壊の後に再建されたものだ。

マアルーラでは占領直前に住民はアサド政権によりダマスカスに送られたため、死者はそこまで出ていないらしいが、元住民のほとんどはダマスカスに残ったままだという
戦争とは人為的な災害であるというのは正しいのだろう。

しかし建築様式が中東感を隠せていないこの感じが、中東の正教会というものを分からせてくれる。


壁沿いにはパネルがあり、それとともに神父さんがガイド氏の助けも借りながら説明してくれた。

今年来る日本人は初めてだということ、最近はロシア人中国人が増えていることなんかも話していた。

その一環でテレビの画面を見るように言われた。

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そこには2020年のものとは似つかない破壊前の姿が映っていた。
大変重厚で、神々しいまさに教会と言えるものだろう。


ここで神父さんが急に顔を和らげ、「君は私たちが話すアラビア語ではない言語があることを知っている?」と質問してきた。

少し考えた後、「アラム?」と答えたら正解であった。

アラム語とはアラビア語浸透以前にシリア周辺で共通語として用いられた言葉であり、イエス・キリストが日常使用していた言語ともされている。

シリアに話者がいることは知っていたが、マアルーラがアラム語のなかの現代西アラム語が現存している3つの街のうち1つであることを知ったのは出国後になる。

まさかの正解にたじろいていると、神父さんがアラム語の歌を歌ってあげると言い、ガイド氏と歌い始めた。

ここでガイド氏がこのマアルーラ育ちであり、この神父さんからアラム語を習っていたことが判明した。

これまでの政権支持的な発言や、前述のホムスに対する敵視等がすべてつながった。
彼にとってアサド政権は保護者であり、反体制派はマイノリティたる自分たちを迫害するなのだ。

歌っている姿は失礼になるかと思い撮影しなかったが、今になると音声だけでも取っておくべきだったかなとも思う。
しかし生のアラム語を聞けるとは思っていなかった。

同時に生きているといっても、日常的に用いているわけではないことが分かり、なんだかさみしかった。

この後、神父さんが今の教会を案内してくれると言ってくれた。


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燭台と十字架

見て分かるとおり、とても1つの教派で著名な教会とは思えない規模である。神父さんの声にも悲しみが感じられた。

道具もほとんどピカピカの新品である。

この写真では真ん中の色が薄くなったプレート(キリストと2人の馬に乗った使途?)だけは残ったものらしかった。


その後そこから壁に隔てられた部屋に連れてきてくれた。

写真禁止!と目立つ看板があったため、誤解を防ごうとスマホをポケットにしまうと、「ああ、せっかくここまで来てくれたんだ。撮りなさい。」と神父さんに言われた。

こうなるとむしろ出さない方が失礼だと思い写真を撮った。

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キリスト教の知識に乏しくこの名前が分からない

そこにあったのはモスクの中にあるような、屋根付きの物だった。
これだけは避難時に持ち帰ったらしく、重要性がうかがえる。


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この左の文章はエラム文字?それともアラビア文字?

中には数々の六芒星と太陽と月、そして頂点に北極星と思われる星を背景にキリストとマリアが対になって描かれていた。

こんなものをこれまでここでしか見たことないので、これがシリア正教会独特のものなのかは分からない。
しかし神秘的な気持ちになった。


見終わった時、神父さんから小さなカップを手渡された。

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キリストの血

ワインだ。まさか人生初のワインをシリアの教会で飲むことになるとは。

甘かった。

(今でも選べるならトカイワインが最高と思ってるあたり原初の体験は重要らしい)


そのままお土産が並ぶコーナーにきた。「まあそうだよな」と思っていたらお土産のセールスではなく後ろの扉の説明が始まった


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やさしいおじさんだった

なんでもこの教会に現存する中で最も古いものらしい。
「テロリストども」はこの板切れが大事なものだとわからずに放置してたんだと笑っていたが、どう反応すればいいかわからなかった。


その後は普通にお土産紹介コーナーが始まった。
ワインもあったが、次の飛行機までに消費できる自信も、酒耐性の自信もなかったのでやめて、シリア正教会で重要視されるらしいのお土産などを購入した。(頭文字が大事で非公認期のキリスト教のシンボルだったらしい)

販売されているお土産だが、どれも非常に安かった

高インフレ下では首都と地方で物価のタイムラグがあるのかもしれない。

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アンフォラだ

お土産コーナーの辺りは破壊をあまり受けなかったそうだ。
それでも左の額縁内にあったであろう絵を思うと「探り」は入れたようだ。


購入した後、丁重に扱ってくれた神父さんに感謝を告げて外にでた。
もう夕方だ。


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手前が仮説十字架で奥は2019年に完成したもの

駐車場から見下ろした景色は素晴らしいものだった。

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丘の上の本山という感じがある

マアルーラは見事なまでに谷の街である。普通に街そのものの見た目も面白いと感じた。


そしてそこから90度視点を動かすとあるのは、

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巨大な廃墟だ。


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銃弾跡のようなものが残る

どうやらホテルのようである。以前は観光客や巡礼者で賑わっていたであろうその建物は静寂につつまれ、そのモノクロな姿で平野を見つめていた。

このホテルが復活する日がくることを願うばかりである。

そしてこの真向いあたりに建築中の家があった。
これを見つめているとガイド氏が話しかけてきた。

「この家は私の家なんだ」
「ここにあった思い出は全て壊されてしまった」
「だから再びつくるしかないんだ」

「私はめげないよ」


「生きるんだ、たとえ何があっても」




帰還


そのままドライバー氏と合流してホテルに帰ることになった。
高速道路に戻って相変わらずの検問を抜けていくと、一段厳しい検問があった。「ああダマスカス市域に入ったんだな」と思った。

メリハリのある検問に何となく新疆を思い出す。

しばらくすると首都に帰ったことを、いやでも実感するものが見えた。


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白線なんてものはない

巨大なハーフェズのモザイクとシリア国旗である。

独裁国家にありがちな、指導者=国家とするものだ。


今朝出たばかりなのにまるで帰省したかのような満足感があった。

非常に濃い1日だった。


ホテルに戻ると、ホテルスタッフから挨拶のような差別を受ける。

部屋に引きこもりたかったが、せっかく来たシリアも明日の朝で終わりだと思うともったいないと外に出た。

流石は崩壊国家、街灯がほとんど付いておらず、暗すぎる

だが暗いおかげでこちらが東アジア人であることがバレにくく、近づかない限り揶揄われたり非人のように扱われることもなかった。ありがたい。

どこに感謝してるんだ。

ともかく腹が減ったのでファラフェルを買った。

店に行くといやでも明るいのが嫌だった。


やはりファラフェルは正義



そして商店のようなものがあったので寄ってみた。

なんとご当地炭酸ジュースがあるではないか。

自分が中東好きな理由の1つに炭酸ジュースの種類が豊富なことがある。
ビールやサワーの代わりにそっちが発達したのだろう。酒をほとんど飲まない自分としては素晴らしいことこの上ない。

ミリンダと同じ味がした

あとは何かシリア製のものはないかと探した結果発見したパンツを購入した。(あれはどこにいったのだろうか)


こうして最後の夜は終わっていった。



おわりに


今回あり得ないくらいに遅れたにも関わらず、ここまで読んでくれた方々に感謝申し上げたい。

本当は今回がラストになるはずだったが、思ったより長くなってしまったので一旦ここで区切りにして、次回は出国とちょっとした総括で締めたいと思っている。


もう2年と半年が過ぎようとしているが、もうちょっとだけ続くんじゃってことで。


P.S.
2年半たっても意外と覚えているもんなんだな。
あと知人がシリア行っているので次回、各種情報のアップデートコーナーもできたらなとかんがえている。


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チャイをたしなむのには最高の宿だったな


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