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『怪物』のラストシーン

※ネタバレあり

映画『怪物』のラストシーンは、どういうことだったのか、最近ずっと考えていた。

先生と母親が助けに来たとき、もしそこで2人が生きていれば、そのまま保護されて家に帰ることになるだろう。だから、ラストシーンで、嵐が去った次の日に、2人が電車から出てきて、草原を駆け回ることはあり得ないことになる。

だから、SNSで感想を見ていると、ラストシーンは死後の出来事であると解釈している人もたくさんいた。「2人は死によって2人だけの幸せを手に入れたという悲しいお話」であると解説している人もいた。だけど、それだと「生まれ変わったのかな?」「もとのままだよ」というやりとりの辻褄が合わない。意識的にこのセリフを入れていると思うので、2人が死によって救済されたというような話ではなさそうだと私は思った。

また、別の考えとしては、「あのシーンは2人の頭の中での出来事(想像の世界)である」というのもあった。まだこっちの方が個人的には共感できた。しかしそれだと、2人を取り巻く世界と、2人のこれからの現実は何も変わらないということになり、これもまた違う気がした。

「それならばラストシーンはどういうことなのだ?」と問われると分からなかった。ただ、坂元さんと是枝さんのファンとしてこれまで2人の作品を見てきた私の感覚としては、あのラストシーンは「死後の世界」でも「2人の想像の世界」でもない気がした。だから、『怪物』のラストシーンが頭から離れなかった。

そうやってモヤモヤしたまま過ごしていると、Twitterでラストシーンについての新しい考えを見つけた。その人の考察は「彼らが生まれ変わったのではなく、世界が生まれ変わったラスト(への祈り)だ。」というものだった。

もちろん、余白を残した映画であり、ラストシーンの解釈は観た人それぞれにあっていいと思っているが、私はこの「世界が生まれ変わった」というのが1番しっくりきて、モヤモヤが晴れた気持ちがした。

映画の中で描かれているように、私たちが生きる世間では、何か起きるとすぐに諸悪の根源は誰なのかという詮索が始まる。それは世界の一部分から邪推したことも交えられ、分かりやすいストーリーが作られていく。そういった行動は、誰かを加害する可能性が大いにあるが、我々は無意識的に行ったり、暇つぶし感覚で行ったり、時には正義感や善意から行っていたりする。

しかし、世界はそんなに単純ではないと、この映画を見ればわかる。予告編でも使われていた「怪物だーれだ」という言葉は、少し意地悪なミスリードなのだ。一連の出来事の「怪物」が誰なのかを探し、なんとこの人でした!という映画に見せかけて、「怪物が特定の誰かだとあなたは言えますか?」「あなたの中にも怪物がいませんか?」というのが真のテーマなのだ。

主観をどこに置くかで世界は変わる。さらには、誰にも言えない、誰に言えばいいかも分からないような感情が存在するのだから、外野の人間がみんな納得するような分かりやすいストーリーには収まらないはずだ。

それではラストシーンの話に戻ろう。「生まれ変わったのかな?」「もとのままだよ」という会話も「世界が生まれ変わった」と考えると納得がいく。少年2人は何も変わっていないのだ。そして、彼らは電車の操縦席に座り、地鳴りのような音がすると「出発するのかな」「出発の音だ」と言った。

もしかすると、坂元さんと是枝さんは『怪物』を、「今のこの世界を変えるための第一歩にしよう」としたのではないだろうか。もちろん嵐が来て次の朝に世界が変わるということは実際にはない。しかし、この映画は出発の合図なのだ。少なくとも私は、この映画を観て、「怪物探しの危険性」と「自分の中にも誰かにとっての怪物がいることの自覚」を考えた。

映画『怪物』は2人の少年がこれからもこの世界で生きていくために、世界を変えようとする大人たちの熱い願いだと私は思った。

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