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往復書簡 #4 守りの「無知」と丸腰の「証言」

前のお便り:「自分は弱い、だから助けてほしい」という強さ

お返事ありがとうございます!

アルコール依存症のお話、そうだったのですね。たぶんその当時は、あまり密にやりとりしていなかったのか、全然心づきませんでした。いまこうして振り返って話せる出来事になっていて、よかったという思いと、すごいという思いで読みました。
自分の知らないところで苦しんでいる人は、思ったよりたくさんいるのですよね。いつも自分の想像できる範囲を超えて。

その背景も含めて、いろいろな「引き継いでしまった」もの、それに全面的に応ずることなどできないのでは、と思いながら、しかしいま考えられることを考えてみたいと思います。

瑛さんが人に語って共有する「弱さ」が「道具としての弱さ」なのかもしれないというお話、なるほどと思いました。ただ瑛さんのそれと、併せて想起された「なにもできない」と胸を張っている人とでは、やはり何かが根本的に違っているような気もします。どちらもたしかに「道具としての弱さ」なのかもしれない。けれども、そのあいだの違いに目を凝らしてみたい、と思います。

単純に言ってしまえば、「なにもできない」と胸を張り、以て人の協力を得る人は「予防線」を張っているような感じがしてしまうのです(それが悪いというわけではないです、協力しやすい態度を示すのは重要なことで、そこから新しいものが生まれることも大いにあると思います)。初めから「自分は無知だから」「無力だから」と言う人は、自分の知識や能力、考え方を試されるという可能性を断つのだという気がします。その人はある意味で無敵です(ソクラテスの「無知の知」っぽいですが、それはそれでまた考えるべきことがありそうです、なにか哲学者に跳ね返ってきそうな……)。しかしその「強さ」には、同時に「甘え」みたいなものも感じるのです。いや、人に頼ることも大事なのですが……。うーん、難しい。ちょっと瑛さんの方を考えてみることにします。

瑛さんの場合、「自分のことを語る」というのが、やはり決定的だと思います(実際にどういうふうに瑛さんが自分の「弱さ」を語るのか、ぼくに対して語ってくださる仕方でしかぼくは知らないので、以下はほとんど想像になってしまいますが……)。

「自分はこういう経験をしてきた、こういう弱さを抱えている」と語るとき、そこでは語り手自身が、傷ついた人として、聞く人の目の前にあらわれるだろうと思います。そこでは、身をもって語るということ、語り手自身が自分の傷をさらすということが、大事な要素になっていると思います(ぼくは例によってアーサー・W・フランク『傷ついた物語の語り手』を思い出しています)。

もしそれを、ぼくが瑛さんの体験談を持ち出して「ほら、人間て弱いんだよ、君も自分の弱さを認めてごらん」などと語るとしたら、ぼくは頬っぺたを引っ叩かれて然るべきでしょう。引っ叩くまでいかなくても、そっぽを向かれるでしょう。瑛さんの経験はやはり瑛さんが語ることだし、もしぼくがそういう次元で人と語りたいなら、ぼくが語るべきは、ぼくのことでしょう。そこではおそらく、「弱さについて語る」だけではなくて、「弱いものとして身をさらす」ことが求められているのだと思います。

瑛さんが「弱さで繋がろうとする」とき、もう一つ重要なことがある気がします。瑛さんが自分の体験を語って、傷ついている人や、人を傷つけてしまい苦しんでいる人に寄り添おうとするとき、そこでは瑛さんが聞き手にもなってくれる、という安心感があるだろうと思います。瑛さんはおそらく共感的に聞いてくれるだろうという安心感と、またおそらく柔軟に(聞き方自体が変化しうるような仕方で)聞いてくれるだろうという安心感。全部想像に過ぎないといえばそうなのですが、やろうとしていることはやっぱり、そういうことなのではないかな……と。理想化しすぎかもしれないし、上手くいかないことも多いのかもしれない、そこではまた新たな傷が生じうるのかもしれないけれども……。

こうして考えてみると、「根本的に違っているような気がする」とぼくが言ったことは、次のようにまとめられるかもしれません。

「自分にはなにもできない」という弱さを示して助力を得る人は、それによって自分を守っている。それに対して、瑛さんのように自分の経験を語る人は、新たな不確実性に身をさらしている……。なんだか英雄化しすぎでしょうか。ただ、自分の経験を語って人に呼びかけるということが、たとえもう受容の段階に移っていたとしても、やはり自分の傷を見せることなのだということ、ここは汲み取りたい気がします。そして、だからこそ人を変容に誘いうるのではないか、とも。ただ、繰り返しになりますが、そこにはきっと危うさもあるのですよね。人を変容に誘うというのは、危ういことです。自分の傷を見せることも。

翻って、「なにもできないから力を貸してくれ」と言う人には、それはそれで不思議な安心感がある気がします。なんというか、からっとしていますよね。ワンピースの印象が強いのかもしれませんが……。お互いが傷つかなさそうな感じがします。誰でも、自分のできることで役立てばいい。変わらなくていい。自分の内面を見つめたりなどしなくていい。そんなメッセージが伝わってきます。そして大概の人間関係は、それくらいからっとしているのがいいのかな、という気もします。

他人の弱さを受け入れる、という話もいろいろ考えて下書きをしたのですが(「その人自身ってなんだろう」みたいなことが、ぼくはずっと気になっています。変化も含めて「その人自身」であるとしたら、現在の「その人」とは一体……?)、思ったよりその前の話でたくさん書いてしまいました。ちょっとだけ触れて、バトンタッチすることにします。

他人の「弱さ」に向き合うのは本当に難しいな、と感じています。その人にとっては認められないものだったりして、そうすると、それを「弱さ」として認識してしまったこちらが間違っているのかもしれないし、どうすればいいのかなと思いながら、そういう思い悩みをこちらが(主観的には)一方的に抱えるような形になってしまったり……。

変な話、そうやって思い悩むところがぼくの「弱さ」だなあとも思われて、しかしこれはぼくの弱さなんだろうか、いやそれとも、いったい何なのだろう……などと思うのです。

ちゃぶ台返しではないのですが、自分や他人の「弱さ」に目を向けること自体が、自分の「弱さ」だと感じられることもあるのですね。そんなことは考えず、天下の形勢とかこの世の真理とかに思いを巡らす方が、心地良いしなんだか「やってるぜ」という感じがする。ぼくにとって「考える」ことは楽しいことなのですが、具体的なひとりひとりの人間のことを「考える」と、途端に苦しくなる。弱くなる。もっと世界とか社会とかについて「世の中かくあるべし」みたいなことを論じ合う方が、意見の対立はあったとしても、からっとしていて軽やかですよね。

もちろん、それだけでは立ち行かないから、ケアの倫理学が起こってきたり、瑛さん自身の思考や実践があったりする。それは分かっていながら、他方でやはり、「弱さ」に目を向けること自体が「弱さ」だと感じられたりもする。なぜ「弱さ」に目を向けるのがしんどいかというと、それはいろいろな要素があるだろうと思うのですが、ひとつにはやっぱり自分の位置が脅かされる、ということでしょうか。「いや、しっかり社会的な人格としてやってますけど」と言いたい。それを脅かされると、いったい自分がどこにいる何者なのだかわからなくなってしまう……。逆にいえば、「自分はここに立っていて、それで大丈夫」という安心感さえあれば、弱さを認めるということもできるのかな、などと。きちんと理解しているとは言い切れないながら、瑛さんの「世界に根を下ろしたような安心感」という言葉に心惹かれて、ぐるぐる考えています。

ちょっと性急にまとめてしまうのですが、具体的なケアの営みが、ただ個々人の弱さに向き合うだけではなく、なにか「世界」とか「社会」といった、大きな場所のなかに位置を占める営みなのだということ、そういう繋がりが見えていると、「弱さ」に目を向けながらも傷に飲み込まれてしまわない、それでいて自分や他者が変容に開かれている、そういう関わり方になるのかなあ……などと考えたりします。

うーん、抽象的で、われながらとてもじれったい!

ひとまずは、「弱さ」を世界に繫ぎ留めるための、試みの一歩をその先へ、という感じで、バトンタッチします。

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