往復書簡#3 「自分は弱い、だから助けてほしい」という強さ
弱さとは何か、それは「自分がそうであることを認められないこと/わからないこと」と捉えることができるのかも知れない。そんなふうに宮田くんのお手紙を読みました。
つまり、自分がこういうところが弱いんだと自ら認識したり、人にそれを前提として受け入れてもらったり、そうでないにしても謝ったりすることを通して、自分がそういう人間であることについては認められている状態は、ある意味では「弱さ」ではないのかもしれないということだと思います。
この話を受けて、すぐに思い出したことがありました。それは、ある日大学時代に友人が「ワンピースから学ぶ リーダーシップ」というような趣旨の本を読んで以来、よく「おれにはなにもできない、だからみんなの力が必要だ」と胸を張っていたというエピソードです。
リーダーシップの中には、高い能力でグイグイ引っ張っていくものもあれば、むしろダメで弱いところのある自分を見せて、助けてもらうリーダーシップもあるのだそうです。放って置けないというか、思わず手を差し伸べてもらうような人が、助けられて大きなことを成し遂げるわけですね。
当時は「そういうものかな」なんて思っていたのですが、今回の話と重ねて理解してみると、少し見え方が変わります。つまり、「なにもできない」と胸を張ることは、弱さを認めることとはちょっと違うんだろうなということです。むしろ、「なにもできないから力を貸してくれ」というとき、むしろそれは強みになるわけですよね。
「お前は何もできないな」と人に指摘されても、後ろめたい気持ちや、悔しく、消えいりたいような気持ちにはならない。むしろ「おう!」とばかりに返せてしまうこと。それは宮田くんの言葉を借りるとまさしく強かさなのかもしれません。
自分に置き換えてみれば、なるほど確かにいま自分が弱さだと人に共有する時、それはあくまで「弱さを認めた上で、それを乗り越えた/乗り越えようとしているんですよ。あなたも一緒にどうですか」なんて話の仕方なのかもしれない。それは結局、他者と弱さで繋がろうとする、「道具としての弱さ」なのかもしれない。弱さでつながっているんだけれども、どこかで自己を肯定する属性や状態として捉えている気がしてきました。
面白いのが、例えば自分がアルコール依存症であった時、それは「認められない」ものだったんですね。依存症とは否認の病とも言われるのですが、とにかくもう人に「ちょっとやばいんじゃない、それってもうアル中って感じじゃん」と言われても、「いや〜、ストレス発散だしこんなもんでしょ」なんて言っておりました。
それでさらに「いや、やばいって。病院いきなよ」と言われたことはありませんが、きっと言われたら不機嫌になり、どこか後ろめたい気持ちを抱えながらも、認めることはしなかったでしょう。認められるものは弱さではなく強かさなのだとしたら、ただしく当時の僕は弱かったわけです。
実際には平日の朝から飲み、眠り、昼過ぎに起きては自己嫌悪でまた飲み眠り…以下繰り返し、数日間そんな意識混濁状態で過ごすことさえあったのに。これは連続飲酒と呼ばれるアルコール依存症の中でもかなり危険な状態だったのですが、それがまったくわからないんですね。
あくまで自分の自由意志によって、自立した個人としての僕の意思決定として、その行動や状態を捉えていました。しかし実際には、その病に振り回され、苦しめられ、仕事の予定もキャンセルし…まさに弱いというか、脆弱というか、大変な状況だったわけです。
でもどこかでこれが危険なことはわかっているから、人に話す時にはボカしたり、冗談めかしたりして、真剣に心配されないようにしていたと思います。
それをいま弱さとして開示し、誰かに話せるようになった今、それはもう弱さではない。先ほど申し上げた通り、「道具としての弱さ」に成り代わってしまっている。それが弱さだと自分で認められた時には、それはもう受容の段階に移行していて、弱さではなくなっている、のかもしれない。
これはまだうまく言えないのだけれど、宮田くんも少し触れている通り、自分の中に自分でないものがいるような感じ。自分の中に、自分だと認めたくない自分がいて、それを無いものののように扱ったりしているうちは苦しい。いざ「ああ、これもまた逃れようがなく自分だ…」と諦めがついたときに、憑き物が落ちるような感覚がある。憑き物はおちるんだけど、自分は拡張される。世界に根を下ろしたような安心感がある。
少し話は広がってしまうけど、これは実際人と関わっている時にも起きることかもしれない。他人に「その人の一部だと認めたくない」部分を感じた時、親しい人であるほどそれを指摘し、修正させようとしてしまう。でもそんなことはできない、多くの場合、相手にとってもそれは弱さであって、認められるものではないことも多い。
そのまま目を逸らして関係を終わらせることももちろんできるんだけど、なにかふっと諦めがついて「ああ、この一面も、否定しがたくこの人なのだ…」と思えると、その人自身が認めるかは別として、少なくとも自分の中ではその人を丸ごと受け入れるような感じになって、今まで感じていた怒りや反発が消えて、うまくやりすごせるようになったり、いっそ可愛げ、愛嬌になったりするから不思議だ。多分、そうされるとその人も楽だろう。どこかで判断され、ジャッジされ「こうなってくれたらいいのに」と思われているその視線は、嫌なものだから。
自分、誰か友人やパートナーときて、本当は組織や社会にまで話を広げたいのだけれど、いまはまだやめておきます。
時間の話も触れたかったのだけど、自分の中でまだ消化できていないので、もう少し考えさせてください。時間は僕の中でまだよくわからないテーマだなあ。
話はとっちらかっていて脈絡もないのですが、これから少しずつ深まっていくような、後から合流したりするのだろうな、というゆるやかな確信があります。弱さのシェアをすること、それ自体が矛盾なのかもしれないけれど、それもやっていけるのかもしれません。
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