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4年前の自分に向けて。「モノ」が好きなら大丈夫

TGIFということで、他にやらないといけない事柄から目を背け、久しぶりになにか文章を書いて発信しようという気分になった。気づけば1年近く、そのようなことはしていない。

さて、誰に向けて何を書くか。そういえば今年の7月で現職4年目が終わり、5年目に突入していた。節目ということで、対象は4年前の自分にする。4年前の自分は、この会社で、またPMとして、生き残れるのかご飯を食べていけるのか不安しか無い状態だったように思う。まだまだPMとして一流とは言えないが、多分ここさえあれば大丈夫という点が見えてきたので、それをテーマとする。

「モノ」が好き、とは

2023年は『推しの子』というコンテンツが流行っている。周囲があまりにもこれを”推す”のでその勢いに気圧され、漫画を読み、「あぁこれ面白いな」と思う。そして作者を調べ、『かぐや様は告らせたい』の人と『クズの本懐』の人が関わっていることを知る。

他にも色々な「モノ」を知り、呼吸するかの如くそれを消費し、作者や企画者について調べ、他の「モノ」をまた消費する。これが意外と重要。4年前の自分はそんなこと分かっていなかったが。

人間が何か向かって駆り立てられる際、その元は人間であることが多い。上司に怒られるだとか、承認欲求だとか、そういう類だ。自分は人に駆動されることも勿論あるが、しかし決定的なものはどちらかといえば良い「モノ」であることが多かった。金獅子賞を取った映像、名作と呼ばれた映画、話題の漫画、アート、哲学書、ソースコード、デバイスといったものが自分にもたらした影響は大きい。「モノ」に駆動されたことが多いと言えるなら、それは「モノ」が好きと言って良いのだと思う。これは結構重要。

「モノ」創りはだいたい辛いし割に合わない。良い「モノ」は特に

というのも、「モノ」創りはだいたい辛い。というか辛くないなら、多分それは良い「モノ」じゃない。
良い「モノ」は必ず何か新しい事柄を世の中に対して提示する。論文と一緒。そして「モノ」創りは1人ではできない。チームを巻き込まないといけない。チームメンバーの時間や労力を、下手したら売れないかもしれない「モノ」創りのために使ってもらうよう説得しなければならない。そして新しいという時点で万人が完全に理解できるわけがない。必ず「なんでそんなん創るの?」の説明責任を果たさなければならない。

更に幸いにして、売れ始めたとしよう。それでもまだまだ「モノ」創りは終わらない。それどころか、加速しなければならない。人も増やさなければならないし、膨れ上がる時間的・金銭的コストも払わなければならないし、ぶっちゃけ自分じゃどうにもならないようなトラブルにもなんとか対処しなければならない。

もうこの時点で辛い。

こういう時に最後の拠り所になるのが、自分自身が良い「モノ」に駆動されたという経験。要は自分自身が良い「モノ」がもたらすインパクトをよく理解していれば、「辛いけど、ああいうインパクトを出したい」と思い、踏みとどまれる。もちろん、プライドとか給料とか富とか名声とかそういったものでもある程度は踏みとどまれるのだろうが、そういうものが結構どうでも良くなる程度には大変なことが往々にして起きるのが「モノ」創りの現場。なぜならそうしたものは別に良い「モノ」創り以外でも得る方法があるからだ。
しかし、良い「モノ」がもたらすインパクトを出すには、良い「モノ」を創るしか無い。代替手段がない。踏みとどまれるというより、踏みとどまる他ないのだ。

ようこそ「モノ」創りの世界へ

この4年間、うまく行ったこともいくつかはあったが、その何十倍かくらいは失敗したことがあった。今でも悔やんでいる失敗も数多くある。
現状を変革するために自分自身の価値観や考え方を捨てたりアップデートしたりといったことも数え切れないほど多くやった。

なんで自分こんなことやってんだっけ?と我に返った回数も数え切れない。長時間労働とかそういう話ではないし、同僚や上司や環境には非常に恵まれてはいるのだが、とにかく日々(自分にとっては)最も難しい課題に取り組んできた。そりゃ疲れもするし、こうやって謎の文章を書き散らかしたくなったりもする。

ただそれでも4年間、「モノ」創りの現場に立ち続けられたのは、おそらく根底には、自分自身が良い「モノ」がもたらすインパクトを信じていることがあるからだと思う。良い「モノ」に感動させてもらった原体験を大事にすれば、「モノ」創りの最前線でも生き残っていけるのだと思う。




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