SNSのお引っ越し

ある日、Instagramを開いたとき、にわかに寂しさを感じた。いや、じわじわと近寄ってきていた寂しさに遂に捕まってしまったといった感じだ。そして、Instagramもこれまでなのかもしれない。僕はそう思ってしまった。

僕がInstagramを「楽しむためのSNS」のレギュラーとしておいたのはいつ頃だっただろうか。それは僕が浪人生をしていた2018年ごろだったように思う。Instagramがサービスを開始したのはそれよりももっと前の話だし、僕の周りで流行し始めたのも2016-2017年ごろだったので、僕がInstagramを始めたのは周りに比べて遅めだった。

というのも、Instagramが一気に流行した当時、僕にとっての「楽しむためのSNS」のレギュラーはまだTwitterだった。「いいね」が「ふぁぼ」で、プロフィールアイコンが四角だった時代。ちなみに僕は高校生だった。当時はまだインフルエンサーという言葉も世間には広まっておらず、Twitter利用者の多くが有名人の投稿を見るよりも身内で絡み合うことに重きを置いていた。タイムラインは友人のツイートで溢れていて、「今日、あいつは彼女とデートか」とか「あいつはあいつと飯に行ってるんだな」とか「あいつのエアリプは絶対あいつに向けたものだろ」とか各々のツイートを見ることで、友人との目に見えない繋がりを感じていた。僕はそんなSNSを介した友人とのコミュニケーションが好きだった。

しかし、時が経つにつれて状況は一変した。面白さを重視した画像や動画をTwitterに投稿する人たちが増えていった。そして、「バズる」や「拡散」といったワードが生まれ、Twitterが有益な情報の発信源、収集源として広く利用されるようになった。それにともなって、これといった特徴のない僕たち一般人のTwitterの使い方は自然と情報収集がメインとなっていった。タイムラインには面白いツイートが溢れているので、自分から何かをつぶやく必要もなく、ただ見ているだけでも十分面白いSNSにTwitterは変わっていった。そのようにTwitterが変わっていくにつれて、友人たちの投稿は減っていったし、タイムラインは彼ら彼女らがリツイートする「面白ツイート」、「有益ツイート」で溢れかえるようになってしまった。このような変化は僕にとっては嬉しいものではなかった。そして、2017年の中頃には友人たちの「〜なう」の投稿はほとんど見かけなくなっていた。

そんなわけで僕は、周りの人間の多くが使っていると噂のInstagramを2018年ごろから使い始めたわけだが、考えてみればTwitterを使う前も熱中していたSNSがある。LINEだ。特にタイムライン。あの世界に僕は熱中していた。僕がLINEのタイムラインに熱中していたのは2014年ごろの話だ。当時、僕は高校生で同級生の中でタイムラインを使ったやりとりが流行っていた。「この投稿にスタンプを押した人に、どう思ってるかメッセージをします」とか「スタンプ押した人にあだ名をつけます」とか、とにかく投稿にスタンプ(今の意味合いでいくと「いいね」みたいなもの)を押すことで何かしらのコミュニケーションが始まることが多かった。ネタがなくなったのかタイムラインの投稿が徐々に減っていた頃、ツイッターが流行り、僕もその波に乗っかりTwitterを始めた。

話を戻そう。タイムライン、Twitterを経て2018年ごろ辿り着いたInstagram。そこにはTwitterから姿を消していた僕の友人たちがみんないた。24時間で消えてしまう「ストーリーズ」にはほぼ毎日友人の日常が投稿されていたし、「投稿」には友人の特別な日の思い出が投稿されていた。僕はその友人の刹那的な日常を見るのが好きだったし、そこから生まれる刹那的なコミュニケーションが好きだった。

そして2023年現在。
僕の友人の多くはInstagramから姿を消した。彼ら彼女らはどこにいるのだろうか。なぜ飛び出していってしまうのだろうか。

僕はSNSに居場所を作る際、重要なのは「広さ」だと思っている。僕たちが次のSNSへと飛び出していく時、もといたSNSは必ずと言っていいほど広くなりすぎているように感じる。常に僕たちは端っこに目や手の行き届く広さの場所を求めて彷徨っている気がする。また、その場所に飽きたときも僕たちは飛び出してしまう。「飽き」とは慣れ親しんだ土地や家を飛び出すことに似ている。しかし、現代の人間は必ずどこかに定住する。つまり飛び出していった僕の友人たちもまたどこかに住まうはずである。僕らの次の住処はどこになるのだろうか。次の引っ越し先はどこなのだろうか。

そんなことを考えながら僕は最近「BeReal.」と「Bondee」という2つのSNSを始めた。「Bondee」に関しては追加できる友達は50人までという縛りがある。これはその世界の広さを調節する役割なのではないだろうか。これらのSNSは僕たちの新しい住処となってくれるのだろうか。これからのSNSの変遷に目を向けつつ、この世界で暮らしてみようと思う。

P.S.
この文章を書くにあたって、「そういえば画像のツイートが増えたよな」と思いながら改めてツイッターのタイムラインを見てみた。すると、文字だけのツイートが信じられないほど少なかった。言葉の通り「つぶやいて」いた時代が懐かしいなと思った。「つぶやき」という概念がとても好きだったのだけれど、今は「発信」と表現する方が正しい気がする。「つぶやき」に意味や価値、利益が求められている気がして寂しい気持ちになってしまう。以前のツイッターは「うんこしたい」とか「雪道で転んだ最悪」とか本当に意味のない、利益とは無縁なもので溢れていて居心地がよかったんだけどな、、。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?