重い話になるが、私は躁鬱持ちだ。

小学校4年生から頑張った勉強生活が花開き私は中学受験に成功した。偏差値が足らなかった第一志望になんとか入り、ここからの学生生活楽しみしかなかった。
そんな未来に心躍らす私を襲ったのは起立性調節障害という思春期病だった。

それ以降私は全てのことを悲観的に見てしまう癖がつき、精神的にも社会的にも生きるか死ぬかギリギリを彷徨い続けていた。
なんで私に限ってこんなことになってしまったのか、そう悩む日も少なくなかった。

今思えば子供の戯言だが、飛び降り自殺するならこの場所、飛び込み自殺するならこの駅、首吊り自殺するならあのホームセンターでロープを買おう、ODで死ぬならあの精神科に行って薬を貰おう、暇なりにたくさん調べて死ぬことを考えていた。

自分の部屋だけがこの世の全てで、それ以外は体が勝手に拒絶していた。心配してくれる友達や先生の言葉にさえまともに返せず、私なんか切り捨ててくれていいのにとさえ思っていた。

そんな鬱々とした生活から抜け出せず高校進学を考えなければならなかったとき、朝起きたら大量の通信高校のパンフレットが部屋に置かれていた。
今その時の母の気持ちを考えると、本当に情けないことをしたなと思うが当時の私はパンフレットひとつひとつが社会へ繋ぐ扉に見えた。

お得意のインターネットサーチでパンフレットにあった学校たちのホームページ、公式SNS、裏ページまで身漁った。100%評判のいい学校こそなかったが、ほとんどの学生が大学進学をするという高校を見つけ私は速攻でそこに決めた。きっと心のどこかで中学校の友達と明確なキャリアの差がつくのを避けたかったのだろう。大好きな友達と同じ目線でまた話すために、私は大学進学を決めた。

そして、私の高校生活が始まった。"同志"というような同じ病を抱えた生徒たちがそこには沢山いて、あっという間に病からくる孤独感が消え去り、誰もが何かを抱えているその環境が私にとっては憩いになった。必然かのように親友ができ、未来の記憶を作っていく日々が愛おしくてしょうがなかった。自分自身を見限っていたのでアルバイトこそチャレンジできなかったが、恋に遊びに私なりに"高校生活"を楽しんでいた。突然鬱が再発し、苦しむ日も少なくなかったがなんとかギリギリ生きていた。そして、あっという間に高校3年生。

私は"留年"、"浪人"、"中退"などの言葉に恐れていたため保守的な選択をした。家から電車で30分、私の唯一できた教科"英語"に特化した大学の留学プログラムを含む特待生。いわゆるFラン大学だったが自分が快適に過ごせればどこの大学でもいいと思っていた。勉強をほとんどしてこなかった私は必須条件だった英検2級を死ぬもの狂いで取り、AO一発合格というノンストレスで大学に合格した。

そして始まった薔薇色大学生活。実際は1ミリも華やかしくなく、ただただ友達と駄弁って課題をして過ごす日々だが漠然とずっと楽しかった。コロナ繁忙期だったのにも関わらず、毎日大学に通い放課後スタバとマックとカラオケ。20歳間近な自覚は一切なく、高校生活と同じ遊び方を繰り返す日々が心地よく幸せで永遠に続けばいいとさえ毎日思っていた。時々鬱が再発して何もできなったり、病院に行ってみたら躁鬱だったと判明したり、病気面でも色々あったが自分なりに全力で頑張った。

そして、あっという間に大学2年の後期。留学が始まった。そしてここが私の現在地である。たくさんの人が英語圏に行く中私は今ドイツにいる。ドイツ語は話せないし、英語もぼちぼち、一人暮らしなんかしたことないし、料理もほぼできない私がドイツで寮暮らしを始めた。孤独感に苛まれて何もできなくなったり、自信を失って前を向けない日も多いがドイツに来てから3ヶ月半経った今本当に留学に来て良かったと思う。そして、このタイミングでここに来れたことを幸せに思っている。

"22-23冬学期に来たことによって、素敵な友達に出会い、ワールドカップを全力で楽しみ、ドイツ内のクリスマスマーケットを旅行しまくり、ヨーロッパの冬を楽しんでいる。

中学1年生、毎日下を向いていた私は想像していただろうか。私がドイツで当たり前に英語とドイツ語を使って暮らしていること、20歳の誕生日をパリで迎えたこと、1人で当たり前にヨーロッパ内を旅行していること。

もしかしたら今の時代、不登校だった過去や躁鬱を患っていることはアイデンティティにならないのかもしれない。しかし、キャリアを考えるタイミングで自分の過去を振り返ると何か人を助ける仕事をしなければと感じるようになった。多くの人ではなく今苦しんで部屋にいる人ひとりひとりを私の経験、知識、笑顔をもって。

(記録)

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