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誕生日は祝われる人のものじゃない

というのは、昨日読んだ漫画に出てきたセリフだ。

『誕生日は「祝う側の人」のものである』。と、確かこんな感じで続くわけです。なるほど、こういうことって世の中には沢山あるのかな、と。

誕生日って、迎えた人にとってみれば、誰かがプレゼントをくれたり、ケーキをくれたりとか。祝ってくれてありがとう嬉しいです。
といった感覚で、一見誕生日を迎えた人が主役であるような気になる。

でも、良く考えたら「自分自身が生まれて、自分自身がめでたいと感じるか?」って問われたら、自分自身は別にめでたくないに決まっている。
「おめでたい」と思うのは、誕生したあなたを見守ってくれる周りの人たちであり、そういう人たちが「生まれてきてくれてありがとう」ってお祝いをするのだ。

それがもともとの意義のはずだ。

『誕生日おめでとう!』。久しく連絡を取っていなかったけれど、SNSに出てきたからそうやって連絡を取ってみたり。おかげで、そこからまた付き合いが再開されたりして。

これも、「誕生日が周りの人にとってのものである」と考えると、とても納得のいくのである。

似たようなもので、御葬式もそうですよね。

本人のために開かれるような顔をしているけれど、あれは別れを惜しむ人が区切りをつけるための儀式。そして、そういった人たちをまとめてお別れしてもらう、という残された人たちにとって事務都合的におこなれる儀式でもある。

本人の希望ではなく、周りの都合によって行われるのだ。

『お客様は神様です』が、もてなす側の言葉であるように、どちらの立場の人のためのものか。ということがあいまいになっている物事は多々あるように思う。

そんな中で、流れに流されるままに物事を享受するのは注意しないといけないんだろうな。なんて。そんなことを思うわけです。
どんなことでも意味があって、物事の根底にある意味を自分で考える。今となっては意味などなさないものもあるだろうし、単なる慣習で続いてきたものもあるだろう。

そういうものの作りを、できる範囲でもきちんと理解して、自分の中で整理整頓する。そうやって一歩ずつ生きていかないと、気がつかないうちに、お客の立場で『お客様は神様です』と言っている人になっているかもしれない。

いやもしかしたら、すでになっていることもあるかもしれない。

でも、今からでも遅くはない。思いついたときに、物事の意味や成り立ちに慎重になることも意味があることなのだろう。
そんなことを思ったのでした。


『そんな、私は今日誕生日を迎えました。おおいに祝ってください!!』

………というオチだとちょっと面白いな、と邪な心が騒いだのですが、残念ながらまったくそんなことはありません(笑


ちなみに読んだ漫画は、そんな内容には全然関係ない、生々しい片思いの漫画です。

#エッセイ #コラム #漫画 #誕生日 #ひとりぼっちで恋をしてみた

「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)