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語学学習に文化の学びが必要な3つの理由

前回は、千野先生の使った「レアリア」といわれる文化、社会文化コンテクストの重要性について書きました。

ところが、学校教育で学んだ英語のテキストや韓国語のテキストにおいて、文化や社会文化コンテクストは「おまけ」にされています。文法がメインディッシュなら、文化や社会文化コンテクストは食べても食べなくてもいい添え物か、巻末にチョロッと載る締めのフルーツ程度の扱いです。食後のデザートはなし、というテキストだってたくさんあります。大学で使用する教科書も同じです(残念ながら、現地の語学堂で学ぶテキストも所詮同じです)。こうした現状には、テキストを書く側の世界観が反映されているといえます。

私たちは英語教育で関係代名詞、完了形などの文法は間違いなく習いますが、英語圏の人々の暮らしや好む食べ物、生活様式といった異文化教育はほとんど受けていません。韓国ドラマを楽しんでいる人は、韓国の人が朝ごはんに何を食べており、どんなお酒の飲み方をして、といった文化情報をふんだんにストックしていると思います。が、教科書に掲載された文化情報は、韓国ドラマ通には到底及びもしない浅い情報ばかりです。

それも、仕方がないことです。言語学者は言葉から世界を見る人達です。言語以外のことについては、どうしても関心が薄まります。Kコンテンツに興味を持ち、それをきっかけにその世界をより深め堪能しようとして韓国語の世界に飛び込んだのに、言語学習の世界では、文化情報からほど遠い、用言の活用やら発音法則やらといった文法事項を叩き込まれてしまいます。それも、言語学者が見ている世界と皆さんが見ている世界に視点のズレがあるからです。これは、言語学者が悪いというわけではありません。宗教学者は宗教から世界を切り取ろうとし、経済学者は経済から世界をみるものです。

千野先生ほどのレジェンドだとレアリアにまで目配りしていましたが、普通の語学の先生は、単語の覚え方、うまく発音するコツ、わかりやすい文法といったことの解説に終始することでしょう。千野先生が「言葉は「自目的」的なものではない」つまり「それ自体が目的にはなり得ないのだ!」と喝破しても、現実では、多くの人が検定試験合格をゴールに設定しているようです。昭和に作られた外国語学習メソッドが長く続いたことによって、こうした言語学習文化がゾンビのようにつきまとうようになってしまったのです。

もちろん、語学の先生が、レアリアを否定することはありません。でもまずは、言語の文法構造を理解し運用できるようになることが先ですよ、となっているのです。文化や社会文化コンテクストは、文法習得後に留学するなりして自分で勝手に身につけたらよろしい、という立て付けなのです(英語を話せない英語の先生の事例からもわかるとおり、教えられないという現実もあります)。それならまだしも、レアリアがふんだんに感じられるKコンテンツの視聴、つまり外国語のヒアリングや字幕付けなどをすることを「上級向け」として初心者から遠ざけたり、学習者自身がKコンテンツの視聴を「語学学習のサボり」と捉えることさえあります。

前置きが長くなりました。ここでは韓国語を学ぶ際に、レアリア(文化や社会文化コンテクスト)を一緒に学ばなければいけない理由を書いていきます。

レアリアなしにはコミュニケーションをとることが不可能だから

人間のコミュニケーションは複雑な要素が絡み合っています。したがって、レアリアなしにはコミュニケーションが取れないのです。2年間、文法や基礎的な会話をみっちり学んで韓国に留学していった学生のケースです。韓国でいざ話をしようとした瞬間、一切話せないことに気付いたというのです。基礎単語を覚えて活用を習ったので言いたいことを自分で文にする力はあります。なのに、なぜ話せなかったのでしょうか。

同じ挨拶、事象について話すにしても、人間は自分と相手との関係性、シチュエーションによって、微妙に言葉を選択しています。相手が寄宿舎の先生なのか、大学のクラスメートや先輩か、あるいはコンビニの店員なのか。自分と相手の関係性・シチュエーションが違えば、「先生」「〜さん」「すみませんが」など、第一声となる呼び止め方も変わってきます。でも、その学生は、敬語文を作る方法は習ったけれど、いつどういうシチュエーションで敬語を使うかは習っていないことに気付き、どんな言葉を選択すればいいのか分からず頭が真っ白になったのでした。

ここでのレアリアとはつまり、私と相手との関係性やシチュエーションによって、どんな言葉を選択するのかに関する情報といえます。この知識がないと、呼称や敬語・ため口を関係性やシチュエーションによってさまざまに使い分けている韓国語は話すことができないのです。これは日本語も同じです。日本語の場合はさらに、男女で一人称や語尾にもバリエーションが発生します。韓国語や日本語は、実はレアリア依存度の高い言語なのです。外国語の代表である英語は、日韓言語と比較してレアリア依存度が低いため、この点を見落としがちなのです。

外国語を日本語に置き換えて理解することには限界があるから

文法学習では、すべて母語に置き変えて学んでいきます。韓国語で作文するときには、日本語の文を韓国語に置き換えて文を作っていきますよね。英語ほど文法構造にギャップがあると、日本語からの直訳は無理だとすぐに気付きますが、日韓は文法構造が近いだけに、全て置き換え可能だと錯覚しがちです。でも実際には、母語に置き換えられないケース、あるいは置き換えることで誤解するケースが発生しているのです。

韓国語の「씨」は日本語の「さん」ですと習います。これ自体は間違いではありません。でも、30代の寄宿舎の世話係であるパク・ソヒさんに向かって「박씨(パクシ)」と呼んだらどうでしょうか。これは完全な間違いです。韓国では姓の씨付けは相手を卑下する言葉だからです。日本語の「パクさん」のニュアンスには全くなっていないのです。あるいは「박소희씨(パクソヒシ)」や「소희씨(ソヒシ)」と呼んだら? これでもまだおかしいです。世話係のソヒさんは学生より年上です。씨呼びは、同世代か年下にのみ使う「さん」なのです。なので生意気な印象になります。じゃあ何て呼べば良かったの? 答えは「선생님(先生)」です。寄宿舎の世話係は、自分に勉強を教えてくれるという意味の「先生」ではありません。でも韓国では「선생님(先生)」を、年上を尊称で呼びたいときに便利に使っているのです。こうやって考えていくと、留学した学生が韓国に着いて全く話せない現実に気付いたというのも納得です。レアリアが徹底的に不足していたのです。

国が違えば、言葉の意味範囲も違って当然なのに、日本語に置き換えて覚えることで、日本語の意味範囲と同じだと思い込んでしまいがちです。そのために、「〜だと習ったのになんで??」と、まるで先生から間違ったことを教わったかのように思う人もいるかもしれません。

これは、異文化を見る視点のトレーニング不足の問題でもあります。外国語学習では、手っ取り早く理解するために韓国語を日本語に置き換えますが、細かく見ていくと、完璧にイコールであるはずがないのです。食文化などの目に見える文化は違いが容易に分かりますが、人々の常識や価値観などの見えない世界は違いが容易に分かりません。なので、違いがあるという視点を持つためにも、レアリア学習は必要なのです。

自分発信には不要だが、相手理解のためには必要だから

現在の学習者のニーズを考えたときに、レアリアは必須とえいます。「推しの人となり」を理解し少しでも近づくことが、韓国語学習の動機になっている人が少なくありません。そういう人には、レアリアがとても大事なのです。

無意識にすり込まれているので皆さんお気づきでないかもしれませんが、これまでの外国語学習は、「自分が発信すること」を目的としています。スピーキングの練習には、自分(日本人)と外国人という設定のダイアログが登場します。日本人である自分が発信する方法について学んでいるのです。

それって当然じゃないの? と思いましたか? 当然ではありません。自分発信ということは、女性アイドルグループがメンバー同士でする会話、ドラマで母と子がする会話、映画で犯人と刑事が交わす会話。こういったシチュエーションはダイアログに登場しません。だって、例えば私が日本男性であれば、女性アイドルになってメンバーと話をするシチュエーションはありえないし、自分の母がいきなり韓国人になることもありえないし、韓国で刑事に逮捕されるシチュエーションもありえないからです。

日本人である私発信のスピーキングということは、シチュエーションが非常に限定されます。空港、ホテル、ショッピング、飲食店がダイアログの主な背景です。広げても、韓国人の友人との会話、頑張ってヨントンペンサでの問いかけがせいぜいです。そんな限定的なシチュエーションだけでスピーキングを練習しても、推しである「相手の理解」にはほど遠いのです。「自分が発信すること」ではなく「相手を理解すること」が主目的であるなら、アウトプット中心のスピーキング練習よりも、インプット中心のレアリア教育が有効だといえるのです。

いかがだったでしょうか。現在の学習者ニーズを考えれば特に、レアリアは言葉の学習のおまけ、周辺にあるもの、やってもやらなくてもいいものでは決してありません。言語とレアリアはセットでないといけないのです。

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